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≪査読付論文≫市民活動支援をめぐる施設、組織、政策 ―アクターネットワーク理論の視点― / 吉田忠彦(近畿大学教授)

更新日:2022年12月14日

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近畿大学教授 吉田忠彦


キーワード:

市民活動支援施設 市民活動センター 市民活動支援施策 アクターネットワーク理論 中間支援組織 かながわ県民活動サポートセンター


要 旨:

 日本の市民活動支援施設の中で最大の「かながわ県民活動サポートセンター」の設立は、当時の知事の強いリーダーシップによるものだったが、それだけではなく地域の活発な市民活動、長く続いた革新県政による財政問題、県の行財政改革、利便性の高い建物の存在などが影響していた。また、そのセンターが担当する市民活動支援の基金についても、知事の指示によって設置が進められたが、市民活動団体との相互作用によって変化していった。つまり、これらの施設や基金の設置と運営は、知事という企業家が提示した政策どおりに進められたのではなく、さまざまな要因によって修正された。また、政策の提示以前にあった要因にも影響されていた。それらの要因の中には建物、震災などの非人間的なものもあった。本稿においては、このケースをアクターネットワーク理論の視点から分析する。


構 成:

Ⅰ はじめに

Ⅱ アクターネットワーク理論

Ⅲ ケース

Ⅳ 考察

Ⅴ まとめ


Abstract

 The Kanagawa Prefectural Activity Support Center, the Japanese biggest support center for civic activities, was built by strong leadership of the prefectural governor. But there were several other factors that have influence on the building of the center, such as many active citizen groups, a fiscal problem of the prefecture, administrative and financial reforms of the prefecture and the existence of a high convenience building. Furthermore, the Kanagawa Voluntary Activity Promotion Fund 21 that is conducted by the center was set up by instructions from the governor. The plan of the fund was changed by interactions between the prefecture and citizen groups. The center and the fund were not set up follow the policies that an entrepreneur made an offer. Instead, the policies were changed several times by various factors include nonhuman factors such as the building and an earthquake disaster. In this paper we analyzed this case by the actor-network perspective.


※ 本論文は学会誌編集委員会の査読のうえ、掲載されたものです。

 

Ⅰ はじめに

 日本の民間非営利法人の中でもいわゆる市民活動団体の法人は、この20年ほどで急増した。NPOの台頭は世界的な動向でもあったが、日本においては主務官庁制に代表される行政によるコントロールが強い従来の法人制度に、準則主義に近い特定非営利活動法人や一般法人の制度が追加されることによって、多様な団体が法人格を取得できるようになったことが大きな原因となっている。また、それと同時に、これらの新しい団体を支援する施策や組織が続々と生まれたことも大きく影響している。

 しかし、市民活動団体の支援施設や組織についての研究は、欧米の先行事例を紹介したり、その重要性を理念的に論じるものがほとんどで、実際のそれらの成立のプロセスや背景を詳細に分析しているものは少ない。新たな法人制度が成立したために、それに伴って支援施策や組織もできていったという説明だけでは、地域による違い、内容の違いなどは説明することができない。どのような背景、条件がその地域の市民活動支援施設や組織を生み出すのか。これを説明するための土台となる知見の蓄積が必要である。

 本稿ではアクターネットワーク理論の視点から、NPO支援をめぐる施設、組織、政策の相互作用を分析する。分析の対象とするケースは、神奈川県が設置したNPO支援施設を中心とし、それに関わった首長、行政および中間支援組織である。


Ⅱ アクターネットワーク理論

 これまで経営戦略論においては、環境の変化に対しての組織の側の適応行動の重要性が強調されることが多かった。あるいは経営組織論においては、コンティンジェンシー理論に見られるように、組織の有効性を環境要素と組織構造との適合性から説明することが多かった。

 しかし、それでは環境が組織の構造や性質を決定するということになり、同じ環境下においても多様な組織が存在することが説明できなかった。そこで、この理論的限界を克服するためのひとつの方法として、組織による環境の認識の方法が注目された。これによって、それぞれの組織ごとの環境認識の違いによって異なる組織設計や行動が生じることを説明する道が拓かれた。

 また、社会学的制度理論が注目されるようになり、制度化の進行に対する諸組織の同型化などが研究されるようになった1)。しかし、社会学的制度理論も多くの研究者がその視点を採用し、普及していくにつれて解釈が曖昧になり、制度が社会的環境と同じようなものとして扱われ、それが組織行動を規定するというかつてのコンティンジェンシー理論と同じ環境決定論に陥っている議論も見られるようになった2)。また、制度の形成や変化を説明する論理をめぐっては、アクティビストあるいは制度的企業家とよばれるキーパーソンによる制度の変革活動などが注目されたが、そのアイデアも、制度変革を説明するのに都合のよい特別な存在としての企業家を持ち出している点が批判されている3)

 このような組織と環境との関係を分析する理論の動向の中で、最近注目されているのがアクターネットワーク理論である。アクターネットワーク理論は社会学的な科学論をルーツにしたものであったが、ある事象がいつの間にか抽象的な概念や用語によってブラックボックス化されてしまっていることに対して、あらためてその内部や形成のプロセスを見直しながら分解し、再構築するという理論的転回をもたらす方法論として、さまざまな分野の研究に応用されはじめている。

 アクターネットワーク理論におけるネットワークとは、ある事象の成立に関わったり、影響を及ぼす要素の繋がりを指す。そしてその要素は人間だけに限られず、非人間的なものも分け隔てなく含められる4)

 ここで問題となるのは、はたして非人間的なものがアクターとみなせるかどうかである。従来の経営学や経営学的組織論においては、非人間的なものは、生産の材料であるか、生産を行うための機械や装置であり、それはあくまでも人間が利用する対象でしかなかった。しかしアクターネットワーク理論では、非人間的なものも人と対称的に扱おうとする。そして発見が科学的に実証されるという科学の現場である実験や研究開発の実際を、ある意味で愚直に観察することによって解体する5)

 たとえば、人とは独立した世界と思われがちな自然科学でも、それが生み出される現場である科学実験では人が作った器具が用いられているし、そもそもその実験を実現するためには研究資金の調達がなされねばならず、研究結果が公表される学会やジャーナルがなければならず、さらにその実験室の発見が多くの研究者によって追認されねばならないのである6)

 実験器具はモノであるが、それは人が作り、使うことで実験器具としてのエージェンシーを発揮し、そして実験を行う人はその実験器具というモノがなければ実験を実施することができないのである。つまり、実験器具というモノも実験を行う人も、それぞれ単なるモノや人ではなく、人の手によって生まれ、人の手によって扱われるモノなのであり、実験室や実験器具を使う人なのであり、それぞれがモノと人とのハイブリットなアクターとなっているのである。

 ラトゥールは、実験などによって作り上げられていく科学の構成プロセスだけではなく、法が作られていくプロセスなど7)、さまざまなわれわれの身の回りにある事実の構成のプロセスを観察し、記述している。

 ラトゥールとともにアクターネットワーク理論を牽引したカロンは、1970年代のフランスにおける電気自動車の開発プロセスを分析している8)。そこでは政府、環境保護団体、開発の現場の研究者、そして結局は市場に出ることのなかった電気自動車など、さまざまなアクターが関わった。環境にやさしい電気自動車というモノは、政府に民間企業の研究開発を支援させ、これまで自動車メーカーと敵対する関係にあった環境保護団体を協力者としてネットワークに登場させたのである。

 カロンはまた、フランスのサン・ブリュー湾でのホタテ貝の養殖に日本の手法を導入しようと企てた研究員たちが、ホタテ貝や漁師の意思を翻訳するプロセスを、問題化(problematization)、関心化(interssement)、登録(enrolment)、動員(mobilisation)という4つの局面に整理している9)

 ラトゥールはアクターネットワーク理論に基づく研究であるかどうかの判断基準として、① 非人間(モノ)にはっきりとした役割が与えられているのかどうか、②「社会的なもの」を安定化させたまま、ある物事の状態を説明していないか、③「社会的なもの」を組み直すことを目指しているのか、今なお離散や脱構築を主張しているかの3点をあげている10)。「社会的なもの」というのは、従来の社会学などで用いられてきた社会、権力、構造など実際にはそこにさまざまな活動や関係があるにも関わらず、それらをいっしょくたに飲み込んでしまう、いわばブラックボックス化された概念のことを指し、それを解体し、組み直していくことがアクターネットワーク理論の目指すところだという。

 また、人間であれ非人間であれ、それぞれエージェンシー(行為体、能力、資源)を有するアクターであり、他のアクターの存在や活動を自分の意図に合わせて繋げたり、解釈したり、利用する「翻訳」を、相手のアクターの活動に反応しながら更新していくとする。これはミッシェル・セールのいう準主体、準客体の概念、あるいはギデンズの構造化理論に共通する視角であり、関係性によって現象を捉えようとするものである11)

 こうした翻訳、つまり自らの意図を達成するために、さまざまなアクターを巻き込み、その状態を保持することに成功すれば、そのネットワークによって構築されたものは事実となり、それに関わるすべての者にとって必要不可欠な「必須の通過点」(obligatory passage point)となるのである12)。逆に見れば、「必須の通過点」となった事象を、それがどのようなアクター達の、どのような翻訳によって構築されたものなのかに分解する記述がアクターネットワーク理論に基づく分析となるといえるだろう。

 本稿においては、「かながわ県民活動サポートセンター」をひとつの「必須の通過点」と捉え、そこにどのようなアクターが関わったか、それらのアクターがどのような翻訳を試み、そしてどのようにその翻訳を更新していったのかを分析する。


Ⅲ ケース

1 かながわ県民活動サポートセンターの概要

 かながわ県民活動サポートセンターは、平成8年(1996年)4月に神奈川県によって設置された県民の自主的な社会貢献活動を支援するための県直営の施設である。いわゆる市民活動センターのパイオニアのひとつであり、官設官営の市民活動センターとしては最初でかつ現在もなお最大のものである。

 横浜駅の西口より徒歩5分という交通至便なところにある地下1階・地上15階の「かながわ県民センター」(建物全体)の内の6つのフロアを占める大規模な施設となっている(延べ床面積約2,400平方メートル)。その6つのフロアにはミーティングルームが13室、印刷機などを備えたワーキングコーナー、ロッカー、レターケース、そして予約なしに自由に無料で使えるフリースペースである「ボランティアサロン」が2フロアにわたって設置されている。また、「かながわ県民センター」の施設である大小10室の会議室も利用でき、しかも朝の9時から夜の10時まで、ほぼ年中無休で開けられている。「ボランティアサロン」の壁は活動紹介やイベント案内などのチラシなどが自由に掲示できるスペースになっており、おびただしい量の印刷物がところ狭しと貼られ、年間利用者約40万人という盛況ぶりを示している。

 もちろんボランティアサロンをはじめとする場や施設などの提供だけではなく、アドバイザー相談や情報収集・提供サービスを行っている他、活動資金を支援する「ボランタリー活動推進基金21」や「かながわコミュニティカレッジ」なども運営している。さらには、神奈川県内各地の市民活動センターのネットワークのまとめ役も担っている。

 初期においては県民部が所管していたが、現在は政策局の出先機関となっている。職員は所長以下約24名、年間の予算は約4億円あまりとなっている13)


2 設置の背景

 このセンターの設置をめぐる最も重要なキーパーソンが、当時の神奈川県知事だった岡崎洋である。岡崎は大学卒業後、大蔵省で30年務めた後に環境庁に出向し、最後の2年は事務次官を務めた。退官後は「財団法人 地球・人間環境フォーラム」を設立し、理事長として環境問題に取り組んでいた。

 横浜市では1960年代から70年代にかけて飛鳥田一雄が横浜市政を担っており、いわゆる革新自治体の旗振り役となっていた。それを受け継ぐように、神奈川県では長洲一二が1975年から5期20年間にわたって革新県政を担っていた。1995年にその長洲が引退することになり、長期にわたる革新県政によって逼迫していた県の財政を立て直すことが県政の喫緊の課題と目される中、大蔵官僚だったキャリアを買われた岡崎が与野党や連合神奈川の推薦を受けて知事選挙に出馬し、当選した。

 岡崎は知事に就任すると自身の知事給与のカットをはじめ、県職員の定数、県の組織数、県債の発行額の3つの削減目標を掲げる等、徹底した行財政改革を推進した。また、PFIを全国で初めて実施するなど元大蔵官僚の手腕を発揮し、「財政のプロ」、「岡崎マジック」などと評された14)

 岡崎は財政危機を克服するためにさまざまな施設の整理を断行したが、一方ではボランティアや市民活動への支援事業を進めた。それは岡崎が知事に就任する3か月前に起こった阪神・淡路大震災をきっかけに世間のボランティアへの関心が高まり、国や自治体でもその支援策が検討され始めたタイミングであったこと、そして岡崎自身が環境庁事務次官を務め、退官後も環境問題に取り組むために自ら財団を設立し、その運営も行っていたという背景があったからである。

 岡崎によるボランティアや市民活動の支援の施策の第一弾が、サポートセンターの設置だった。長洲県政の後半にはすでに県財政の危機が明らかとなっていた中で、県政総合センターに入るいくつかの行政機関の移転が進められていた。県政総合センターは横浜地区行政センター、労働センター、出納事務所など県の行政機関が入る建物であったが、横浜駅から徒歩数分という利便性の高さをより有効に使うため、県民に身近な施設として利用する方策が模索されていたのである。

 このような状況の中で、岡崎は就任早々に県政総合センターにあった横浜地区行政センターを廃止すると同時に、そこにボランティア支援のためのセンターを設置することを決定した。その時の様子を、センターの担当者だった椎野は次のように述べている15)

 「就任直後の6月に、『ボランティア活動を総合的に支援するための施設を設置する』という方針を示したが、知事のスピード感はいわゆるお役所仕事から見ると尋常ではなかった。9月に横浜駅西口に立地する既存施設をサポートセンターとして改修するための経費を補正予算で措置し、翌年の4月20日にはオープンさせてしまったのである。」

3 設置までの過程

 同じ頃、国では阪神・淡路大震災でのボランティアのめざましい活躍を受けて、ボランティア支援のための法律を作る準備が始まっていた。しかし、これに対していくつかの市民活動団体が異議を唱え、個々のボランティアの支援ではなく、ボランティアの活動の受け皿となり、コーディネートを行う団体の基盤を整備するべきであると主張し、全国的なキャンペーンを起こしたため、ボランティア支援法はNPO法へと転換していった。さらにそのNPO法の制定をめぐっても、議員立法によることになり、いくつかの政党が案を提示し、そこに市民活動団体側の提案も出され、ロビー活動が展開されるといった複雑な状況になっていた。

 構想の初期の段階では、このセンターはボランティア活動の支援のための施設として位置づけられ、実際に県庁内では「ボランティアセンター」と呼称されていた。しかし、国のボランティア支援法がNPO法へと転換しはじめたことや、神奈川県でもボランティアという枠では収まらない多様な市民活動が行われており、県職員の中にもそれらの活動に関わる者がいたこと16)、さらに施設を設置するのにその目的を規定する必要があり、「ボランティアが自由に利用できる」というのでは明確さを欠いていた。そこで、「県民の自主的で営利を目的としない社会に貢献する活動を支援するための施設」(設置条例第2条)とし、それをボランタリー活動として条例に規定することとなった17)

 センターの設置がプレスリリースされたのが、岡崎が就任してまだ半年も経たない1995年の9月だった18)。しかも設置は翌年度開始の4月とされた。その設置予定までの8か月足らずの間に、条例の検討、予算編成、施設改修工事、備品類の整備、そして支援の内容の検討など、さまざまな準備を進めねばならなかった。

 建物の名称も「県政総合センター」から「かながわ県民センター」と変えられ、県民相談室、横浜消費生活センター、神奈川県福祉プラザ、そしてかながわ県民活動サポートセンターが入る複合施設となった。


4 市民活動団体側からの批判

 センターの大前提はボランティアが使いやすいことであり、職員は黒子に徹することというのが岡崎の基本的な考えだった。センターの運営がある程度軌道に乗った後に、岡崎は設置の構想について以下のように振り返っている19)

  「サポートセンターを行政主導型で運営しようという発想は絶対とらないようにしようと考えていました。集まった人たち、使う人たちが使いやすいような形を行政が黒子になって支える。基本の考えは、県の職員は絶対にオモテに出ないように運営しようということでした。」

 岡崎は、センターの開館時間は他の公共施設と同じように午後6時か7時までにしたいという県職員の意見を一蹴し、午後10時までの開館と正月以外は無休を指示するなど、使いやすさについてはこだわりを見せた20)。しかし、ボランティアが使いやすい施設の運用といっても、その具体的内容を詰めていくのは容易なことではなかった。

 施設や設備の整備については、既存の分野ごとの支援センターが参考にされた21)。しかし、具体的な支援の内容や施設の運用(利用規則など)については、ボランタリー活動の支援施設というのは全国でも例がなかったため、はじめから細かな規定を作るのを避け、「走りながら考える」というスタンスで臨むこととされた。そして、初年度は「利用しやすい場の提供」を目標とし、2年目に「充実した情報の提供」、3年目に「人材育成、活動支援などを通じた総合支援、ボランティアの支援機関のサポート」を目標とすることにした22)

 このような行政主導のセンター設置の進め方に対して、市民活動団体などから、当の利用者である県民の声を聞く機会が設けられていないと批判の声があがった。これ以後、神奈川県による市民活動支援施策に強くコミットしていく「まちづくり情報センターかながわ」(通称アリスセンター、以後アリスセンター)は、次のようにコメントしている23)

  「サポートセンター設置のときも、NPOとの議論があったわけではなかった。先駆的な知事と先駆的な行政がNPOに良かれと思う『適切』な施策をどんどん進めていく、というのが神奈川県の特徴だ。」

 まれに見る大型の市民活動支援施設でありながら、構想発表からオープンまでわずか8か月足らずで設置というのは拙速であり、さらにその設置プロセスで利用者である県民や市民活動団体との意見交換の機会が設けられなかったことは、施設の性質から考えてもおかしいというのが市民活動団体側からの批判だった。とりわけアリスセンターとしては、県がセンター設置によって行おうとする事業が自分たちの事業と重なるため、その動向は自分たち自身のあり方にも関わる重大な問題なのであった。


5 ボランタリー活動推進基金21をめぐる攻防

 市民活動団体側と県との衝突と交渉がさらに激しさを増すのが、センターのオープンから5年後に創設されたボランタリー活動推進基金21の設置と運営方法をめぐってであった。

 この基金は、厳しい県の財政状況の中でその財源を捻出するために、県が持つ約100億円の債権を原資とするもので24)、大蔵官僚だった岡崎知事ならではのアイデアだった。岡崎の指示を受けてこの基金の創設に携わった椎野は当時のことを次のように述べている25)

  「県の総合計画の中には市民活動の資金支援の計画が入っていたのですが、バブルがはじけたこともあって先送りになっていたわけです。本来は県民部が担当でしたが、岡崎さんは財政課に県の貸付債権を原資としてそれを基金と位置付けろと。職員はもうびっくりしてしまって。それは大蔵省の財政のプロだから分かることで、とても県庁の職員ができる発想じゃないわけです。」

 自ら財団法人を立上げ、環境問題に取り組んでいた岡崎は、その時の経験から民間団体がいかに資金確保に苦労しているかを知っていた。また、時間を見つけては神奈川県内の団体を訪問し、その活動ぶりや資金ニーズを把握していた26)

 100億円の債権を原資とするこの基金によって、1,000万円を上限とする協働事業負担金、200万円を上限とするボランタリー活動補助金、100万円(個人の場合は50万円)を上限とするボランタリー活動奨励賞などが用意された。

 しかし、県民活動サポートセンターの設置の時と同じように、この基金の創設も岡崎によるトップダウンで進められ、そのスケジュールは非常にタイトなものだった。その構想が初めて公表されたのが2001年元旦の神奈川新聞紙上で、第1面に「NPOへのお年玉」という見出しで基金の構想が岡崎知事の言葉として紹介された。その翌月からの県議会定例会で条例が制定され、予算が成立した27)。そして4月に条例が施行された。つまり、新聞紙上で構想が発表されてから、わずか3か月でこの基金は開始されたのである。

 活動資金の確保に苦労することの多い市民活動団体にとっては、この基金の構想は正にお年玉であり、大きな期待が寄せられた。そのインパクトの大きさを感じたアリスセンターは、新聞発表の翌月の2月から県への問い合わせを始めた。しかしその条例案は議会に提出される前であったために具体的な内容についての情報は提供されず、アリスセンターによる県へのヒアリングは議会終了後の3月末となった。

 アリスセンターはヒアリングの内容や経緯を機関誌などで発信し始めた。そして基金の運営のあり方とそれを決めるプロセスについて、理念として掲げられていた「県とボランタリー団体との協働」が十分に実現されていないことに疑問を呈し、県に協議を申し出たり、政策提言を行うなどの一連の活動を開始した。

 4月に入り条例によって基金が設置されてからは、基金の担当は県民部県民総務室から県民活動サポートセンターになった。アリスセンターは県内の他の中間支援組織など5団体とともに協議団体を構成し、県との協議を行い、運営の方法などについて提案を行った。

 アリスセンターを中心とした市民活動団体側は、市民と行政との協働を実現するにはこの基金の運営も事務局を市民と行政と協働して運営すべきであると主張した。しかし県側は、この基金が県の持つ債権を利用するという特殊なものであることから、その事務局は県で担当する必要があるとしてこの提案を受け入れることはなかった。提案は受け入れられなかったが、審査会の運営の事前調整の場である幹事会に協議会から幹事を推薦することが認められた。

 この市民活動団体による協議会は審議会の委員にも働きかけ、審査会が公開になるようにした。そして協議団体も限られた団体だけで議論するのではなく、県内のNPOに広く参加を呼びかけた「基金21NPOサポーターズ」とし、メーリングリストなどで意見を募るようにした。そこでまとめられた意見は、「基金21NPOサポーターズ」提案として第2回の幹事会と意見交換会に出された。

 しかし、7月の審査会・幹事会合同会議では基金による資金を期待するNPOの中から、早く公募を開始することを望む意見が出され、9月に公募が開始されることになった。また、その合同会議では「基金21NPOサポーターズ」提案以外に2つの団体からも提案がなされた。

 これらの提案を受けて、審査会の提案により募集内容の検討を行う「基金21サポート会議」が設けられることになった。そこでは基金の今後の運営を「走りながら考える」仕組みとして、市民と行政とが協働して進める「基金プラットフォーム」を作ることが検討された。これは翌年(2002年)の6月に、「基金21協働会議」として実現することになった28)。この会議は、審査会と市民活動団体と県が対等な立場で参加し、基金をより良くするための協議を行う仕組みとして設置された29)。また、同時に県庁内には「ボランタリー団体との協働推進会議」が設置された。

 その後も神奈川県は、「NPO等との協働推進指針」を策定したり(2004年10月)、県民部県民総務課に「NPO推進室」を設置したり(2005年4月)、「ボランタリー団体等と県との協働の推進に関する条例」を施行したり(2010年4月)と、市民活動団体との協働を積極的に進めていった30)


6 センターの市民活動団体へのインパクト

 アリスセンターは、「まちづくり情報センターかながわ」という本来の名称のとおり、まちづくりに関わる人びとの情報センターとして立ち上げられた。交流の場づくり、市民事業・市民活動のサポート、新しいプログラムの開発を目的としていたが31)、はじめの頃はまだ活動が認知されていなかったため、神奈川県下のさまざまな団体を回って情報を集めたりしながら、それを情報誌(らびっと通信)として発信したり、当時普及し始めていたパソコン通信のホスト局を開設したりしていた32)。しかし、情報センターとしてのそれらの事業は、インターネットの普及によって見直しを迫られるようになった。迅速性が肝心な情報はネットでのメール配信となり、これを「らびっと通信」とし、紙媒体の情報誌の方は、関係者や専門家による特集記事を中心とした「たあとる通信」となった。

 ところが、苦労して集めた市民活動に関する情報は、市民活動団体からよりも、行政から市民活動に関する調査の委託を受けたコンサル会社から問い合わせを受けることの方が多かった。そのためアリスセンターでは、市民活動自体に関する情報の収集と提供ではなく、市民活動を実践する人たちに向けて、活動に必要なノウハウや活動に役立つ情報を提供する方向へとシフトしていった33)。また、市民活動の状況については、コンサル会社に提供するのではなく、直接に行政から委託調査として受けるようになり、その受託事業の専門部門として「アリス研究所」という有限会社を立ち上げた。

 こうしてアリスセンターは、まちづくり関係者の情報センターから、本体は任意団体のままで市民活動の支援活動を中心とするようになり、他方で行政からの委託調査は有限会社として行うようになった。県民活動サポートセンターが登場したのは、そんな時期だった。つまり、アリスセンターがまちづくり情報センターから市民活動支援組織として軌道を修正したところだったのである。

 同時にこの時期にはNPO法成立に向けての動きが活発化し、それと並行してNPOの支援組織も立ち上がり始めていた。県民活動サポートセンターが設立された1996年の10月には震災のあった神戸でコミュニティ・サポートセンター神戸(CS神戸)、11月には大阪NPOセンター、日本NPOセンターが続々と設立され、それに続こうとする動きが起こっていた。アリスセンターは、そうしたNPO支援組織の先駆けとして注目される存在となっていた。その翌年の1997年の6月には日本NPOセンターによる初めての全国フォーラム(NPOフォーラム’ 97 in かながわ)が横浜市で開催され、アリスセンターはその現地事務局を担った34)

 しかし、アリスセンターがNPO支援組織のパイオニアとして周囲から認知されるようになっていく一方で、地元では県民活動サポートセンターによる市民活動支援の体制が充実していった。会議室、いつでも予約なしに使えるボランティアサロン、無料の印刷、資料コーナー、相談コーナーと、少なくとも施設・設備としては圧倒的な充実ぶりだった。さらに情報誌も出されるようになった。

 このような状況の中で、1998年にNPO法が成立し、アリスセンターも翌年1999年10月にNPO法人となった。全国各地でNPOの支援施設や組織が続々と立ち上がっていく中で、アリスセンターはNPOの中間支援組織のパイオニアとして、NPO支援事業を模索しながら、スタッフは全国各地でNPOや中間支援組織についてのセミナーや講演を行うようになっていった。

 アリスセンターはNPO支援の事業として、法人設立支援や運営の相談、そして会計、税務、労務などに関する冊子の作成などを始めていた。しかし、そうした活動のかなりの部分が県民活動サポートセンターやそれに続いた各地域での市民活動センターによって扱われるようになっていた。また、全国的に行政が設置した施設を、NPOや中間支援組織が管理運営する公設民営の市民活動センターが普及していった。そしてそのような公設民営のセンターが行政と市民との協働として認知され、むしろ行政が積極的にそれを推進する流れとなっていた。

 もともとは、「まちづくり」といっても逗子市での米軍住宅問題や反原発運動などを背景にした市民運動の流れの中で誕生したアリスセンターは、神奈川県下での紛争や運動にコミットしてきた。NPOという言葉やNPO法人という器の登場によって、市民の活動は行政と協働する「市民活動」と目されるようになり、行政をチェックしたり、告発するような「市民運動」の色が褪せていくことをアリスセンターの関係者は警戒していた。また、NPO法人化を機会として、理事長に就任するこれまでの代表者以外の運営委員を全員一新し、さらにその理事長も法人への移行が一通り落ち着いた2001年には、役員の中で最も若かった理事と交代した。

 市民の活動がNPOとして認識されていく流れの中で、その中心的存在と周囲から目されていたアリスセンターは、自らのアイデンティティを模索せねばならない段階に入っていたのである。県によってボランタリー活動推進基金21の計画が公表されたのは、まさにそうしたタイミングだったのである。


Ⅳ 考察

1 ケースからの観察事項

 本稿で採り上げた神奈川県における市民活動支援のためのセンターと基金は、知事であった岡崎洋というキーパーソンが、その権限と知恵をベースにして設置を進めたと説明しても間違いではないだろう。しかし、実際のプロセスはより複雑で、多様な要素が相互作用しており、岡崎の登場やその意図や能力だけでは、実際に出現したセンターや基金を十分に説明することはできない。

 センター設置をめぐる条件は、岡崎が知事に就任する前からある程度進んでいたのであり、岡崎自身もそうした状況を見た上での構想と決断だったのである。また、その具体的仕様や運用をめぐっては、利用者やアリスセンターをはじめとする市民活動団体側との交渉ややり取りがあり、岡崎や県の計画どおりには進まなかった。岡崎はあくまでもボランティアセンターをイメージしていたが、時代の流れの中でボランタリー活動やNPOの支援センターというコンセプトに修正されていった。

 さらに基金21についても、やはり岡崎がその設置の計画を起こしたが、設置後の実際の運用を巡っては、アリスセンターを中心とした市民活動団体との激しいやり取りがあり、それによって県の当初の計画は修正され、運用ルールも「走りながら」形成されることになった。

 一方、市民活動の側もセンターや基金による県の支援を利用しつつ、他方ではその運用をめぐって交渉していた。アリスセンターは、自身のアイデンティティを模索する流れの中で、県の支援施策に大きく影響された。

 さらに県の支援施策は、県下の自治体の支援施策にも影響を及ぼしただけではなく、日本全体の市民活動支援施設の設置や仕様にも大きな影響を及ぼした。

 また、このケースにおいては、県政センターという物理的な場の存在が重要であったことも指摘しておかねばならない。実際、その後の各地における市民活動支援施設の設立や閉鎖は、行政の持つ施設の有無、あるいは利用の可否が大きく影響している。

 つまり、市民活動を支援するという目的のために施設を設置する、あるいは市民活動側のニーズがあるのでそれに応えるために施設を設置するという目的と事業との因果関係は、ある意味で表向きのものであり、その背後には利用可能な建物があったからその構想が実現可能と目されたり、遊休施設があるためにそれを活用する手段として施設を設置する計画が具体化するという流れがあった。さらに、NPOや中間支援組織に関しても、それらの存在やアピールがあったからこそ施設の設置が実現したのである。市民の要望は、行政側の計画に正当性を与え、その実現を支えたのである。


2 アクターネットワーク理論に基づく分析

⑴ 必須の通過点としての県民活動センター

 アクターネットワーク理論では、ある事実の構築に関わるアクターとして人間と非人間を区別することなく、そのエージェンシーと翻訳を観察していくが、それらのアクターの翻訳はアクター間の相互作用や翻訳によって更新されていく、いわば再帰的なものである。したがって、ブラックボックスとして完成したように見えた事実も、やがてまた解体され変容していくために、諸アクターの翻訳には終点がないことになる。また、諸アクターの翻訳を遡っていく場合にも際限がなくなってしまう。

 そこで重要となるのが、分析・記述の中心点の設定である。「必須の通過点」ができたと見なせるのは、事象の観察時点でそれらの相互作用がひとまず落ち着いた状態になったということであり、これを分析・記述の中心点とすることが妥当と思われる。

 NPO法が成立するより約3年近くも前に設置され、その後の市民活動支援センターの普及に影響を及ぼし、年間約40万人もの利用者を呼び込む「かながわ県民活動サポートセンター」は、設立から四半世紀を経た今日なお日本を代表する市民活動支援センターである。神奈川県において市民活動支援に関する何らかの活動や議論をする際には、このセンターの存在を抜きにして進めることはできない。

 神奈川県を中心にした市民活動の場として、多くの人びとがこのセンターを利用するようになった。また設置した岡崎や県も、センターが全国的に有名になり、多くの視察者を呼び込むに至り、市民活動支援や市民との協働が県政の姿勢となった。アリスセンターにとっても、その運営に参加したり、関連の事業を受託したり、イベント等の会場として利用したりと、重要な活動の場となった。こうしたさまざまなアクターがセンターを認知し、利用する状況によってセンターの存在が事実構築されたのである。

 これらのことから、この県民活動センターがラトゥールのいう「必須の通過点」となっていると見なし、ケースの分析・記述の中心点としたことは妥当と考えてよいだろう。

⑵ アクターとそのエージェンシー 

 このケースにおけるアクターとして挙げられるのは、次のようなものである。まず、岡崎知事や神奈川県の職員、そしてアリスセンターや県民活動サポートセンターの利用者である市民や市民団体などの人や組織である。岡崎知事を生み出し、施設等の統廃合を導いた神奈川県や横浜市の革新自治体も含められる。

 一方、非人間のアクターとしては、物理的な空間や設備を備えた県民センター(元・県政センター)の建物、その利用方法の変更を導いた行政改革の流れ、ボランティア支援やNPO法を導いた1995年の阪神・淡路大震災、岡崎のボランティアセンター構想に影響を与えたNPO(概念)の台頭、基金21を可能にした県の債権などである。また、アリスセンターに影響を与えたインターネットも含められる。

 アクターとは、ある事象の構築に参加する要素のことであり、それに関するエージェンシーを有するものである。そのアクターのエージェンシーは、他のアクターのエージェンシーを身にまとったものであり、そして人と非人間とのハイブリッドとなることがあり、それらがネットワークとなっていることから、カロンはそれをハイブリッド・コレクティブ(hybrid collectives)、あるいはコミュニティと表現している35)

 しかし、アクターネットワークを構成するアクターとしては同等であっても、非人間アクターに主体的な翻訳活動を見出すのは難しい。また、人的アクターであっても、自らはそのアクターネットワークに積極的には関わらず、翻訳を行わない場合も考えられるだろう。

⑶ 翻訳の更新

 元大蔵官僚そして環境庁次官であり、環境関係の財団も立ち上げた岡崎は、それらのバックグラウンドに基づくエージェンシー、そして知事としての権限などのエージェンシーを保有し、ボランティアセンター設置に向けて、県政センター、行政改革、阪神・淡路大震災後のボランティアブーム、革新自治体の下で活発になっていた市民活動、そして市民活動に明るい県職員などをアクターとした翻訳を行った。それは初期段階ではかなり成功し、センターの設置自体は非常に短期間で実現した。

 構想の段階での岡崎による翻訳を示したのが図1である。この図では、翻訳を企てるアクター(岡崎)が、問題化の段階として、諸アクターの目的を定義し、それらのアクターが必須の通過点(ボランティアセンター)を通過せねばならないように設定するのを分かりやすくするために、多様なアクターの内のいくつかをピックアップして表示している。


図1 岡崎による構想段階の翻訳

(Callon 1986, Figure2.をベースに筆者作成)



図2 岡崎による更新された翻訳

(Callon 1986, Figure2.をベースに筆者作成)


 岡崎のボランティアセンターの構想は、阪神・淡路大震災後の国のボランティア支援立法の構想がNPO法制定に向けた動きに転換したり、日本ネットワーカーズ会議などに関わっていた県職員の示唆などによってボランタリー活動支援というコンセプトに修正された。また、その運営方法などをめぐって交渉をする市民活動団体の存在を無視することができなくなっていった。こうして岡崎の初期の翻訳は、ボランティアセンターからボランタリー活動支援へ、県が一方的に市民にサービスを提供するセンターから、利用者や市民活動団体と協議しながらルールを作っていくセンター作りに更新され、さらに基金21でのアリスセンターなどとの摩擦はその色合いを強いものにした。

 図2は、岡崎の最初の翻訳が、NPO台頭の動向を察知していた県職員、市民活動支援事業にコミットするアリスセンターなどを知覚した上で更新されたことを示したものである。

 一方、アリスセンターは、インターネットの普及や行政からの委託事業の増加などによって、「まちづくりの情報センター」としての自らのアイデンティティを模索する中で県のセンターの出現を迎えた。まだ自らの方向性が定まらない中で、県のセンターの登場を市民活動の場所が提供されることと歓迎していた。県のセンターを意図した翻訳が本格化するのは、委託事業を有限会社で行うことにし、アリスセンター本体は団体サポートを行うという方向性が定まりだした頃である。アリスセンターは、県民活動センターの運営委員会のメンバーになる一方、NPOのサポートセンターの草分けとして日本NPOセンターのイベントなどにも参加しはじめた。そして、市民活動やその支援の姿を模索する中で運動性やアドボカシーの重要性を再認識し、基金21の構想が発表されてからは積極的な政策提言や運動を開始した。県民活動センターを自己の事業の便利な場とする翻訳から、そのあり方に対して積極的に関与し、アドボカシーを実践することが自らの市民活動の重要な側面であると捉え直したのである。

 その翻訳においては、日本NPOセンターやトヨタ財団関係者、日本ネットワーカーズ会議のメンバーでもあった県職員、県民活動センター、インターネット、県下の市民活動団体などがアクターとされたが、基金21の募集開始が遅れることを懸念する市民活動団体が現れたことで、「基金21サポート会議」という協議の場を追加した翻訳の更新を進めた。


Ⅴ まとめ

 本稿においては、「かながわ県民活動サポートセンター」とそのプログラムである「ボランタリー活動推進基金21」を舞台とした諸アクターの活動を詳細に記述し、アクターネットワーク理論の視点から分析した。

 ともすれば経営学や経営戦略論においては、組織目的を達成するのに有効な戦略や組織づくりをいかに追求するかという規範論的な議論となり、それによって現実の事象の生成や変質のダイナミクスとの乖離を生じさせがちであった。それに対する反省から、経営戦略論においても、実際に経営戦略の名の下に実践されている活動を記述し、分析しようとする「実践としての戦略」(SAP: Strategy As Practice)などが展開されるにいたっている。「実践としての戦略」は、いわば実践論的転回ともいうべきもので、その考え方は妥当なものである。しかし、経営戦略だけが具体的実践によって構築されているわけではない。あらゆる現実がさまざまなアクターの参加によって構築されているのである。そしてまたその現実の構築過程は、さまざまなアクターによって再帰的に、継続的に進み続けるのである。さらに、「実践としての戦略」ではその中身に分け入ったところで、あくまでも人による活動の実践しか見ていない。

 本研究においては、アクターネットワーク理論を導入することによって、こうした従来の経営学や経営戦略論の発想を転回させ、さらに実践論的転回に踏み込みはじめた研究の流れをより先に進めることができた。ここでは、「経営」、「組織」、「戦略」、「制度」、「政策」といった表象的な語句で現実を単純化することを避け、できるだけ具体的なアクターやその活動を記述し、分析した。それによって明らかになったことは、これまで企業家や組織の判断や行動と見なされていたことが、実際には非人間を含めた他のアクターとのネットワークを翻訳する試みであり、またその翻訳は諸アクターと相互作用しながら更新されていくということであった。

 アクターネットワーク理論自体にもすでにさまざまな批判や、そのバリエーションなどが展開されているが、ここでは経営学的な立場からその課題について検討しておこう。

 まず、アクターネットワーク理論のスタンスと経営学のスタンスが基本的に異なることを認識しておかねばならない。やはり経営学なり行政学といった分野では実践的含意が求められ、たとえ記述論的研究であっても、その先に実践に向けての指針性に繋がることが前提とされている。一方、アクターネットワーク理論は、人類学的手法を用いているために視点は非常に具体的であるものの、そこに実践に向けての示唆は意図されていない。そういう意味では、経営学はアクターネットワーク理論の分析視角を援用するというスタンスにとどまり、その援用から実践的含意に結び付けるロジックなりモデルを開発していかねばならないのである。しかし、たとえば企業家を分析の中心対象とし、そのエージェンシーと諸アクターを動員可能な資源と見れば、翻訳は単なる戦略と同じことになってしまい、アクターネットワーク理論を持ち出す意味はなくなる。そういうリスクを回避しながら、アクターネットワーク理論の視角を導入した経営学的な理論構築が必要である。

 もうひとつの課題は、事実構築のプロセスを詳細にたどることの労力と記述方法である。先にも触れたとおり、ブラックボックスが形成されるに至るプロセスの観察は際限なく広がり、そして際限なく遡れてしまう。ラトゥールたちが実験室の様子をつぶさに観察したようには企業や行政の内外のアクターの活動は追えないだろう。そのため、どうしても規模の小さなケースを対象とするか、あるいはある程度の規模のケースを少し粗く記述するしかないが、その照準の設定が課題となるだろう。

 最後に本研究の限界と今後の課題について考えておきたい。上記の経営学的な立場でアクターネットワーク理論を導入することの課題と同じことを含んでいるが、まず本研究からどのように実践的含意を導くかの考察が不十分である。しかし、経営学の既存の概念に収束されるリスクがあるため、ケースの記述、分析を蓄積しながら慎重に進めるべきであろう。

 また、アクターネットワーク理論の意図からすれば、実際にどのようなアクターが存在したかを探索し、それらのアクターの翻訳の更新を追った経時的な動きを記述することが重要となるが、本研究では対象も期間も限られたものになっている。たとえば、本稿で「県」、「職員」、「市民活動団体」、「市民活動支援」などと表象されたことがらを解体する必要があるだろう。


[謝辞]

 本文で直接引用した椎野修平氏、川崎あや氏以外にもアリスセンターの理事であった早坂毅氏、菅原敏夫氏、饗庭伸氏など多くの方にインタビューに応じていただいた。記して感謝したい。また、有益なコメントをいただいた2名の匿名の査読者にもこの場をおかりして感謝申し上げたい。本研究はJSPS科研費17K03911、18K01439、18K01781の助成を受けたものである。


 

[注]

1)同型化については次を参照のこと。DiMaggio, P.J. and W. W. Powell, “The Iron Cage Revisited: Institutional Isomorphism and Collective Rationality in Organizational Fields,” American Sociological Review, Vol.48, pp.147-160, 1983. また、制度理論全般については次を参照のこと。桑田耕太郎・松嶋登・高橋勅徳(編)『制度的企業家』ナカニシヤ出版、2015年3月。

2)桑田他編、前掲書、7ページ。

3)桑田他編、前掲書では社会学的制度理論(制度派組織論)に関する議論が整理されており、環境決定論との批判に対して導入された制度的企業家という概念をめぐる論争やその後の展開について解説されている。

4)ラトゥール自身、人をイメージさせるアクター(actor)ではなく、記号論で用いられるアクタン(actant)という語を用いることがある(cf. Latour 1999=2007)。しかし、本稿においてはアクターネットワーク理論という語との整合性を考え、「アクター」で統一する。

5)アクターネットワーク理論のベースとなっているのが、1970年代からイギリスを中心に起こったSTS(Science and Technology Studies)と呼ばれる科学技術研究の動向であり、そこではハロルド・ガーフィンケルが提唱したエスノメソドロジーの手法から科学の構築過程が分析され、参与観察、会話記録の分析など人類学的な調査手法が用いられる(cf. Lynch 1993=2012)。

6)Latour(1987=1999)、Latour(1999=2007)などラトゥールの初期のアクターネットワーク理論の研究では実験室の様子、森林土壌の調査の様子が詳細に観察され、記述されている。

7)Latour(2002=2017)では、「予審会議」での発言を詳細に引用し、ファイルの作り方(輪ゴムで止められ、カートンフォルダに収められ、いったん木製の本棚に置いて熟させられる。)を写真付きで解説し、法の作成の具体的な活動が記述、分析されている。

8)Callon, M., “The state and technical innovation: a case study of the electrical vehicle in France”, Research Policy, 9, pp.358-376, 1980.

9)Callon,M.,“Some elements of a sociology of translation:domestication of the scallops and the fishermen of St Brieuc Bay”,in J. Law,Power,Action and Belief:a new sociology of knowledge? London, Routledge, pp.196-223, 1986, pp.203-219.

10)Latour, B., Reassembling the Social: An Introduction to Actor-Network-Theory, Oxford: Oxford UP. 2005, pp.10-11.(伊藤嘉高訳『社会的なものを組み直す-アクターネットワーク理論入門』法政大学出版局2019年、24-26ページ)。

11)アクターネットワーク理論に対する批判もすでにさまざまな論者によって提示されている。たとえば、オブジェクト指向存在論に立つハーマンは、ラトゥールのアクターネットワーク理論がモノも行為=活動に還元して論じる上方還元(埋却)であり、活動していない対象が見過ごされてしまったり、上方還元されることで間違って理解される恐れがあると指摘している。Harman, G., Immaterialism: Objects and Social Theory, Cambridge: Polity Press.2016, p.10.(上野俊哉訳『非唯物論 オブジェクトと社会理論』河出書房新社、2019年、20ページ)。しかし、非人間的な要素もアクターとして捉える視点は、ここでとりあげるケースの分析には有効であると考えられる。

12)Latour, B., Science in Action: How to Follow Scientists and Engineers Through Society, Open University Press. 1987, p.150.(川崎勝・高田紀代志訳『科学が作られているとき-人類学的考察』産業図書、1999年、261ページ)。

13)これには県民センターの庁舎管理業務が含まれている。

14)坂倉政丸「刊行によせて」、岡崎ひろし政策研究会編『行く径に由らず 知事二期八年の軌跡』神奈川新聞社、2003年5月、2ページ。

15)椎野修平「地方自治体とNPO」上條茉莉子、椎野修平(編著)『NPO解体新書-生き方を編み直す』公人社、2003年7月、73ページ。

16)日本NPOセンターの設立に大きく関与した日本ネットワーカーズ会議のコアメンバーだった久住剛、鈴木健一などがいた。

17)「かながわ県民活動サポートセンター事業報告書」(1996年度)8ページ。「かながわ県民活動サポートセンター条例」(平成8年3月29日)第2条。また、後にこのセンターを担った椎野は、「これは、単なるボランティアの支援ではなく、市民活動・県民活動を広く支援することを重視したためである」と、より簡潔に説明している。(椎野修平「自治体によるNPO支援策の変遷「市民セクターの20年」研究会報告⑸」『公益法人』2014年3月号、26ページ)。

18)『神奈川新聞』平成7年9月12日「県民活動サポートセンター 来年4月開設へ」

19)『神奈川新聞』平成15年1月1日、岡崎洋政策研究会編『行く径に由らず 知事二期八年の軌跡』神奈川新聞社、2003年、209ページ。

20)岡崎洋政策研究会編、前掲書、234ページ。

21)椎野インタビュー。2005年9月9日 於:かながわ県民活動サポートセンター。

22)かながわ県民活動サポートセンター事業報告書(1996年度)11ページ。

23)まちづくり情報センターかながわ「たあとる通信」No.2、2001年、 42ページ。

24)かながわボランタリー活動推進基金21条例(平成13年3月27日条例第10号)の第3条で、基金の財産約100億円の内容が以下のように説明されている。

 1. 債権

  ア 県が昭和63年度から平成9年度までに一般会計において神奈川県住宅供給公社に対して貸し付けた賃貸住宅建設資金貸付金

  イ 県が昭和53年度から平成12年度までに一般会計において市町に対して貸し付けた住宅資金市町村貸付金

 2. 現金

  ア 1に掲げる債権の元金償還金

  イ 1に掲げる債権の運用により生じた利子

  ウ 県が平成4年度に一般会計において一般財団法人神奈川県警友会に対して貸し付けた警友病院建設資金貸付金の償還及び利子

  エ 基金の趣旨に添う寄附金

  オ アに掲げる元金償還金、イに掲げる利子及びウに掲げる償還金及び利子並びにエに掲げる寄附金の運用により生じた収益金

25)椎野インタビュー。2019年3月14日 於:日本NPOセンター。

26)「(岡崎)知事は自分で県内のNPOを15団体ほど回ってるんですよ。秘書も連れないで。それで協働事業で1千万ほどの金を使える活動をやっている団体があると確信していたんです」椎野インタビュー。2019年3月14日 於:日本NPOセンター。

27)椎野修平「神奈川県担当者が考える『これまで』と『今後』」まちづくり情報センターかながわ「たあとる通信」No.4、2001年11月、27ページ。

28)神奈川県政策研究・大学連携センター「神奈川県におけるNPO支援施策の概要」神奈川県/慶應義塾大学(編著)『自治体の政策刷新効果と地域力』ぎょうせい、2011年3月、160ページ。

29)ボランタリー活動推進基金21協働会議・報告書編集会議「走りながら考えた協働の5年間」かながわ県民活動サポートセンター、2006年9月、15ページ。

30)神奈川県政策研究・大学連携センター、前掲書、160ページ。

31)まちづくり情報センターかながわ団体紹介パンフレット。

32)土屋真実子「神奈川の市民活動の変化に応じて、変わってきたアリスセンター」『造景』19号1999年2月、85ページ。

33)川崎あや(当時の事務局長)インタビュー。2005年9月9日 於:アリスセンター。

34)神奈川県の担当者だった椎野は次にように述べている。「神奈川県内の関係者を中心とした実行委員会を組織して準備を進めた。現地事務局は、まちづくり情報センターかながわ(アリスセンター)が担当し、かながわ県民活動サポートセンターとフォーラムよこはまという公的機関が側面からバックアップした。第2回目以降のフォーラムでも概ねこうした方式が踏襲されているが、開催地域におけるNPOのネットワークの形成とエンパワーメントに寄与している」。椎野修平「市民セクター推進のプロモーターとしての取り組み」日本NPOセンター編『市民社会創造の10年 -支援センターの視点から』2007年5月、230ページ。

35)Callon,,M.,“The role of hybrid communities and socio-technical arrangements in the participatory design”, 『武蔵工業大学環境情報学部情報メディアセンタージャーナル』第5号、2004年、4ページ。(川床靖子訳「参加型デザインにおけるハイブリッドな共同体と社会・技術的アレンジメントの役割」)(上野直樹・土橋臣吾[編]、2006年、『科学技術実践のフィールドワーク-ハイブリッドのデザイン』せりか書房、40ページ)。

 

[参考文献]

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佐野章二「第1章 イメージから現実へ-日本におけるサポートセンター」市民活動地域支援システム研究会『日本のサポートセンター 設立・活動プログラム・活動の実際(市民活動地域支援システム研究・パート3)』1998年3月、1-12ページ。

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椎野修平「自治体によるNPO支援策の変遷「市民セクターの20年」研究会報告⑸」『公益法人』2014年3月号、26-29ページ。

土屋真実子「神奈川の市民活動の変化に応じて、変わってきたアリスセンター」『造景』19号1999年2月、84-88ページ。

論稿提出:令和元年10月15日

加筆修正:令和 2 年 6 月 7 日


 



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