≪査読付論文≫市民活動支援をめぐる施設、組織、政策 ―アクターネットワーク理論の視点―

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近畿大学教授 吉田忠彦


キーワード:

市民活動支援施設 市民活動センター 市民活動支援施策 アクターネットワーク理論 中間支援組織 かながわ県民活動サポートセンター


要 旨:

 日本の市民活動支援施設の中で最大の「かながわ県民活動サポートセンター」の設立は、当時の知事の強いリーダーシップによるものだったが、それだけではなく地域の活発な市民活動、長く続いた革新県政による財政問題、県の行財政改革、利便性の高い建物の存在などが影響していた。また、そのセンターが担当する市民活動支援の基金についても、知事の指示によって設置が進められたが、市民活動団体との相互作用によって変化していった。つまり、これらの施設や基金の設置と運営は、知事という企業家が提示した政策どおりに進められたのではなく、さまざまな要因によって修正された。また、政策の提示以前にあった要因にも影響されていた。それらの要因の中には建物、震災などの非人間的なものもあった。本稿においては、このケースをアクターネットワーク理論の視点から分析する。


構 成:

Ⅰ はじめに

Ⅱ アクターネットワーク理論

Ⅲ ケース

Ⅳ 考察

Ⅴ まとめ


Abstract

 The Kanagawa Prefectural Activity Support Center, the Japanese biggest support center for civic activities, was built by strong leadership of the prefectural governor. But there were several other factors that have influence on the building of the center, such as many active citizen groups, a fiscal problem of the prefecture, administrative and financial reforms of the prefecture and the existence of a high convenience building. Furthermore, the Kanagawa Voluntary Activity Promotion Fund 21 that is conducted by the center was set up by instructions from the governor. The plan of the fund was changed by interactions between the prefecture and citizen groups. The center and the fund were not set up follow the policies that an entrepreneur made an offer. Instead, the policies were changed several times by various factors include nonhuman factors such as the building and an earthquake disaster. In this paper we analyzed this case by the actor-network perspective.


※ 本論文は学会誌編集委員会の査読のうえ、掲載されたものです。

Ⅰ はじめに

 日本の民間非営利法人の中でもいわゆる市民活動団体の法人は、この20年ほどで急増した。NPOの台頭は世界的な動向でもあったが、日本においては主務官庁制に代表される行政によるコントロールが強い従来の法人制度に、準則主義に近い特定非営利活動法人や一般法人の制度が追加されることによって、多様な団体が法人格を取得できるようになったことが大きな原因となっている。また、それと同時に、これらの新しい団体を支援する施策や組織が続々と生まれたことも大きく影響している。

 しかし、市民活動団体の支援施設や組織についての研究は、欧米の先行事例を紹介したり、その重要性を理念的に論じるものがほとんどで、実際のそれらの成立のプロセスや背景を詳細に分析しているものは少ない。新たな法人制度が成立したために、それに伴って支援施策や組織もできていったという説明だけでは、地域による違い、内容の違いなどは説明することができない。どのような背景、条件がその地域の市民活動支援施設や組織を生み出すのか。これを説明するための土台となる知見の蓄積が必要である。

 本稿ではアクターネットワーク理論の視点から、NPO支援をめぐる施設、組織、政策の相互作用を分析する。分析の対象とするケースは、神奈川県が設置したNPO支援施設を中心とし、それに関わった首長、行政および中間支援組織である。


Ⅱ アクターネットワーク理論

 これまで経営戦略論においては、環境の変化に対しての組織の側の適応行動の重要性が強調されることが多かった。あるいは経営組織論においては、コンティンジェンシー理論に見られるように、組織の有効性を環境要素と組織構造との適合性から説明することが多かった。

 しかし、それでは環境が組織の構造や性質を決定するということになり、同じ環境下においても多様な組織が存在することが説明できなかった。そこで、この理論的限界を克服するためのひとつの方法として、組織による環境の認識の方法が注目された。これによって、それぞれの組織ごとの環境認識の違いによって異なる組織設計や行動が生じることを説明する道が拓かれた。

 また、社会学的制度理論が注目されるようになり、制度化の進行に対する諸組織の同型化などが研究されるようになった1)。しかし、社会学的制度理論も多くの研究者がその視点を採用し、普及していくにつれて解釈が曖昧になり、制度が社会的環境と同じようなものとして扱われ、それが組織行動を規定するというかつてのコンティンジェンシー理論と同じ環境決定論に陥っている議論も見られるようになった2)。また、制度の形成や変化を説明する論理をめぐっては、アクティビストあるいは制度的企業家とよばれるキーパーソンによる制度の変革活動などが注目されたが、そのアイデアも、制度変革を説明するのに都合のよい特別な存在としての企業家を持ち出している点が批判されている3)

 このような組織と環境との関係を分析する理論の動向の中で、最近注目されているのがアクターネットワーク理論である。アクターネットワーク理論は社会学的な科学論をルーツにしたものであったが、ある事象がいつの間にか抽象的な概念や用語によってブラックボックス化されてしまっていることに対して、あらためてその内部や形成のプロセスを見直しながら分解し、再構築するという理論的転回をもたらす方法論として、さまざまな分野の研究に応用されはじめている。

 アクターネットワーク理論におけるネットワークとは、ある事象の成立に関わったり、影響を及ぼす要素の繋がりを指す。そしてその要素は人間だけに限られず、非人間的なものも分け隔てなく含められる4)

 ここで問題となるのは、はたして非人間的なものがアクターとみなせるかどうかである。従来の経営学や経営学的組織論においては、非人間的なものは、生産の材料であるか、生産を行うための機械や装置であり、それはあくまでも人間が利用する対象でしかなかった。しかしアクターネットワーク理論では、非人間的なものも人と対称的に扱おうとする。そして発見が科学的に実証されるという科学の現場である実験や研究開発の実際を、ある意味で愚直に観察することによって解体する5)

 たとえば、人とは独立した世界と思われがちな自然科学でも、それが生み出される現場である科学実験では人が作った器具が用いられているし、そもそもその実験を実現するためには研究資金の調達がなされねばならず、研究結果が公表される学会やジャーナルがなければならず、さらにその実験室の発見が多くの研究者によって追認されねばならないのである6)

 実験器具はモノであるが、それは人が作り、使うことで実験器具としてのエージェンシーを発揮し、そして実験を行う人はその実験器具というモノがなければ実験を実施することができないのである。つまり、実験器具というモノも実験を行う人も、それぞれ単なるモノや人ではなく、人の手によって生まれ、人の手によって扱われるモノなのであり、実験室や実験器具を使う人なのであり、それぞれがモノと人とのハイブリットなアクターとなっているのである。

 ラトゥールは、実験などによって作り上げられていく科学の構成プロセスだけではなく、法が作られていくプロセスなど7)、さまざまなわれわれの身の回りにある事実の構成のプロセスを観察し、記述している。

 ラトゥールとともにアクターネットワーク理論を牽引したカロンは、1970年代のフランスにおける電気自動車の開発プロセスを分析している8)。そこでは政府、環境保護団体、開発の現場の研究者、そして結局は市場に出ることのなかった電気自動車など、さまざまなアクターが関わった。環境にやさしい電気自動車というモノは、政府に民間企業の研究開発を支援させ、これまで自動車メーカーと敵対する関係にあった環境保護団体を協力者としてネットワークに登場させたのである。

 カロンはまた、フランスのサン・ブリュー湾でのホタテ貝の養殖に日本の手法を導入しようと企てた研究員たちが、ホタテ貝や漁師の意思を翻訳するプロセスを、問題化(problematization)、関心化(interssement)、登録(enrolment)、動員(mobilisation)という4つの局面に整理している9)

 ラトゥールはアクターネットワーク理論に基づく研究であるかどうかの判断基準として、① 非人間(モノ)にはっきりとした役割が与えられているのかどうか、②「社会的なもの」を安定化させたまま、ある物事の状態を説明していないか、③「社会的なもの」を組み直すことを目指しているのか、今なお離散や脱構築を主張しているかの3点をあげている10)。「社会的なもの」というのは、従来の社会学などで用いられてきた社会、権力、構造など実際にはそこにさまざまな活動や関係があるにも関わらず、それらをいっしょくたに飲み込んでしまう、いわばブラックボックス化された概念のことを指し、それを解体し、組み直していくことがアクターネットワーク理論の目指すところだという。

 また、人間であれ非人間であれ、それぞれエージェンシー(行為体、能力、資源)を有するアクターであり、他のアクターの存在や活動を自分の意図に合わせて繋げたり、解釈したり、利用する「翻訳」を、相手のアクターの活動に反応しながら更新していくとする。これはミッシェル・セールのいう準主体、準客体の概念、あるいはギデンズの構造化理論に共通する視角であり、関係性によって現象を捉えようとするものである11)

 こうした翻訳、つまり自らの意図を達成するために、さまざまなアクターを巻き込み、その状態を保持することに成功すれば、そのネットワークによって構築されたものは事実となり、それに関わるすべての者にとって必要不可欠な「必須の通過点」(obligatory passage point)となるのである12)。逆に見れば、「必須の通過点」となった事象を、それがどのようなアクター達の、どのような翻訳によって構築されたものなのかに分解する記述がアクターネットワーク理論に基づく分析となるといえるだろう。

 本稿においては、「かながわ県民活動サポートセンター」をひとつの「必須の通過点」と捉え、そこにどのようなアクターが関わったか、それらのアクターがどのような翻訳を試み、そしてどのようにその翻訳を更新していったのかを分析する。


Ⅲ ケース

1 かながわ県民活動サポートセンターの概要

 かながわ県民活動サポートセンターは、平成8年(1996年)4月に神奈川県によって設置された県民の自主的な社会貢献活動を支援するための県直営の施設である。いわゆる市民活動センターのパイオニアのひとつであり、官設官営の市民活動センターとしては最初でかつ現在もなお最大のものである。

 横浜駅の西口より徒歩5分という交通至便なところにある地下1階・地上15階の「かながわ県民センター」(建物全体)の内の6つのフロアを占める大規模な施設となっている(延べ床面積約2,400平方メートル)。その6つのフロアにはミーティングルームが13室、印刷機などを備えたワーキングコーナー、ロッカー、レターケース、そして予約なしに自由に無料で使えるフリースペースである「ボランティアサロン」が2フロアにわたって設置されている。また、「かながわ県民センター」の施設である大小10室の会議室も利用でき、しかも朝の9時から夜の10時まで、ほぼ年中無休で開けられている。「ボランティアサロン」の壁は活動紹介やイベント案内などのチラシなどが自由に掲示できるスペースになっており、おびただしい量の印刷物がところ狭しと貼られ、年間利用者約40万人という盛況ぶりを示している。

 もちろんボランティアサロンをはじめとする場や施設などの提供だけではなく、アドバイザー相談や情報収集・提供サービスを行っている他、活動資金を支援する「ボランタリー活動推進基金21」や「かながわコミュニティカレッジ」なども運営している。さらには、神奈川県内各地の市民活動センターのネットワークのまとめ役も担っている。

 初期においては県民部が所管していたが、現在は政策局の出先機関となっている。職員は所長以下約24名、年間の予算は約4億円あまりとなっている13)


2 設置の背景

 このセンターの設置をめぐる最も重要なキーパーソンが、当時の神奈川県知事だった岡崎洋である。岡崎は大学卒業後、大蔵省で30年務めた後に環境庁に出向し、最後の2年は事務次官を務めた。退官後は「財団法人 地球・人間環境フォーラム」を設立し、理事長として環境問題に取り組んでいた。

 横浜市では1960年代から70年代にかけて飛鳥田一雄が横浜市政を担っており、いわゆる革新自治体の旗振り役となっていた。それを受け継ぐように、神奈川県では長洲一二が1975年から5期20年間にわたって革新県政を担っていた。1995年にその長洲が引退することになり、長期にわたる革新県政によって逼迫していた県の財政を立て直すことが県政の喫緊の課題と目される中、大蔵官僚だったキャリアを買われた岡崎が与野党や連合神奈川の推薦を受けて知事選挙に出馬し、当選した。

 岡崎は知事に就任すると自身の知事給与のカットをはじめ、県職員の定数、県の組織数、県債の発行額の3つの削減目標を掲げる等、徹底した行財政改革を推進した。また、PFIを全国で初めて実施するなど元大蔵官僚の手腕を発揮し、「財政のプロ」、「岡崎マジック」などと評された14)

 岡崎は財政危機を克服するためにさまざまな施設の整理を断行したが、一方ではボランティアや市民活動への支援事業を進めた。それは岡崎が知事に就任する3か月前に起こった阪神・淡路大震災をきっかけに世間のボランティアへの関心が高まり、国や自治体でもその支援策が検討され始めたタイミングであったこと、そして岡崎自身が環境庁事務次官を務め、退官後も環境問題に取り組むために自ら財団を設立し、その運営も行っていたという背景があったからである。

 岡崎によるボランティアや市民活動の支援の施策の第一弾が、サポートセンターの設置だった。長洲県政の後半にはすでに県財政の危機が明らかとなっていた中で、県政総合センターに入るいくつかの行政機関の移転が進められていた。県政総合センターは横浜地区行政センター、労働センター、出納事務所など県の行政機関が入る建物であったが、横浜駅から徒歩数分という利便性の高さをより有効に使うため、県民に身近な施設として利用する方策が模索されていたのである。

 このような状況の中で、岡崎は就任早々に県政総合センターにあった横浜地区行政センターを廃止すると同時に、そこにボランティア支援のためのセンターを設置することを決定した。その時の様子を、センターの担当者だった椎野は次のように述べている15)

 「就任直後の6月に、『ボランティア活動を総合的に支援するための施設を設置する』という方針を示したが、知事のスピード感はいわゆるお役所仕事から見ると尋常ではなかった。9月に横浜駅西口に立地する既存施設をサポートセンターとして改修するための経費を補正予算で措置し、翌年の420日にはオープンさせてしまったのである。」

3 設置までの過程

 同じ頃、国では阪神・淡路大震災でのボランティアのめざましい活躍を受けて、ボランティア支援のための法律を作る準備が始まっていた。しかし、これに対していくつかの市民活動団体が異議を唱え、個々のボランティアの支援ではなく、ボランティアの活動の受け皿となり、コーディネートを行う団体の基盤を整備するべきであると主張し、全国的なキャンペーンを起こしたため、ボランティア支援法はNPO法へと転換していった。さらにそのNPO法の制定をめぐっても、議員立法によることになり、いくつかの政党が案を提示し、そこに市民活動団体側の提案も出され、ロビー活動が展開されるといった複雑な状況になっていた。

 構想の初期の段階では、このセンターはボランティア活動の支援のための施設として位置づけられ、実際に県庁内では「ボランティアセンター」と呼称されていた。しかし、国のボランティア支援法がNPO法へと転換しはじめたことや、神奈川県でもボランティアという枠では収まらない多様な市民活動が行われており、県職員の中にもそれらの活動に関わる者がいたこと16)、さらに施設を設置するのにその目的を規定する必要があり、「ボランティアが自由に利用できる」というのでは明確さを欠いていた。そこで、「県民の自主的で営利を目的としない社会に貢献する活動を支援するための施設」(設置条例第2条)とし、それをボランタリー活動として条例に規定することとなった17)

 センターの設置がプレスリリースされたのが、岡崎が就任してまだ半年も経たない1995年の9月だった18)。しかも設置は翌年度開始の4月とされた。その設置予定までの8か月足らずの間に、条例の検討、予算編成、施設改修工事、備品類の整備、そして支援の内容の検討など、さまざまな準備を進めねばならなかった。

 建物の名称も「県政総合センター」から「かながわ県民センター」と変えられ、県民相談室、横浜消費生活センター、神奈川県福祉プラザ、そしてかながわ県民活動サポートセンターが入る複合施設となった。


4 市民活動団体側からの批判

 センターの大前提はボランティアが使いやすいことであり、職員は黒子に徹することというのが岡崎の基本的な考えだった。センターの運営がある程度軌道に乗った後に、岡崎は設置の構想について以下のように振り返っている19)

  「サポートセンターを行政主導型で運営しようという発想は絶対とらないようにしようと考えていました。集まった人たち、使う人たちが使いやすいような形を行政が黒子になって支える。基本の考えは、県の職員は絶対にオモテに出ないように運営しようということでした。」

 岡崎は、センターの開館時間は他の公共施設と同じように午後6時か7時までにしたいという県職員の意見を一蹴し、午後10時までの開館と正月以外は無休を指示するなど、使いやすさについてはこだわりを見せた20)。しかし、ボランティアが使いやすい施設の運用といっても、その具体的内容を詰めていくのは容易なことではなかった。

 施設や設備の整備については、既存の分野ごとの支援センターが参考にされた21)。しかし、具体的な支援の内容や施設の運用(利用規則など)については、ボランタリー活動の支援施設というのは全国でも例がなかったため、はじめから細かな規定を作るのを避け、「走りながら考える」というスタンスで臨むこととされた。そして、初年度は「利用しやすい場の提供」を目標とし、2年目に「充実した情報の提供」、3年目に「人材育成、活動支援などを通じた総合支援、ボランティアの支援機関のサポート」を目標とすることにした22)

 このような行政主導のセンター設置の進め方に対して、市民活動団体などから、当の利用者である県民の声を聞く機会が設けられていないと批判の声があがった。これ以後、神奈川県による市民活動支援施策に強くコミットしていく「まちづくり情報センターかながわ」(通称アリスセンター、以後アリスセンター)は、次のようにコメントしている23)

  「サポートセンター設置のときも、NPOとの議論があったわけではなかった。先駆的な知事と先駆的な行政がNPOに良かれと思う『適切』な施策をどんどん進めていく、というのが神奈川県の特徴だ。」

 まれに見る大型の市民活動支援施設でありながら、構想発表からオープンまでわずか8か月足らずで設置というのは拙速であり、さらにその設置プロセスで利用者である県民や市民活動団体との意見交換の機会が設けられなかったことは、施設の性質から考えてもおかしいというのが市民活動団体側からの批判だった。とりわけアリスセンターとしては、県がセンター設置によって行おうとする事業が自分たちの事業と重なるため、その動向は自分たち自身のあり方にも関わる重大な問題なのであった。


5 ボランタリー活動推進基金21をめぐる攻防

 市民活動団体側と県との衝突と交渉がさらに激しさを増すのが、センターのオープンから5年後に創設されたボランタリー活動推進基金21の設置と運営方法をめぐってであった。

 この基金は、厳しい県の財政状況の中でその財源を捻出するために、県が持つ約100億円の債権を原資とするもので24)、大蔵官僚だった岡崎知事ならではのアイデアだった。岡崎の指示を受けてこの基金の創設に携わった椎野は当時のことを次のように述べている25)

  「県の総合計画の中には市民活動の資金支援の計画が入っていたのですが、バブルがはじけたこともあって先送りになっていたわけです。本来は県民部が担当でしたが、岡崎さんは財政課に県の貸付債権を原資としてそれを基金と位置付けろと。職員はもうびっくりしてしまって。それは大蔵省の財政のプロだから分かることで、とても県庁の職員ができる発想じゃないわけです。」

 自ら財団法人を立上げ、環境問題に取り組んでいた岡崎は、その時の経験から民間団体がいかに資金確保に苦労しているかを知っていた。また、時間を見つけては神奈川県内の団体を訪問し、その活動ぶりや資金ニーズを把握していた26)

 100億円の債権を原資とするこの基金によって、1,000万円を上限とする協働事業負担金、200万円を上限とするボランタリー活動補助金、100万円(個人の場合は50万円)を上限とするボランタリー活動奨励賞などが用意された。

 しかし、県民活動サポートセンターの設置の時と同じように、この基金の創設も岡崎によるトップダウンで進められ、そのスケジュールは非常にタイトなものだった。その構想が初めて公表されたのが2001年元旦の神奈川新聞紙上で、第1面に「NPOへのお年玉」という見出しで基金の構想が岡崎知事の言葉として紹介された。その翌月からの県議会定例会で条例が制定され、予算が成立した27)。そして4月に条例が施行された。つまり、新聞紙上で構想が発表されてから、わずか3か月でこの基金は開始されたのである。

 活動資金の確保に苦労することの多い市民活動団体にとっては、この基金の構想は正にお年玉であり、大きな期待が寄せられた。そのインパクトの大きさを感じたアリスセンターは、新聞発表の翌月の2月から県への問い合わせを始めた。しかしその条例案は議会に提出される前であったために具体的な内容についての情報は提供されず、アリスセンターによる県へのヒアリングは議会終了後の3月末となった。

 アリスセンターはヒアリングの内容や経緯を機関誌などで発信し始めた。そして基金の運営のあり方とそれを決めるプロセスについて、理念として掲げられていた「県とボランタリー団体との協働」が十分に実現されていないことに疑問を呈し、県に協議を申し出たり、政策提言を行うなどの一連の活動を開始した。

 4月に入り条例によって基金が設置されてからは、基金の担当は県民部県民総務室から県民活動サポートセンターになった。アリスセンターは県内の他の中間支援組織など5団体とともに協議団体を構成し、県との協議を行い、運営の方法などについて提案を行った。

 アリスセンターを中心とした市民活動団体側は、市民と行政との協働を実現するにはこの基金の運営も事務局を市民と行政と協働して運営すべきであると主張した。しかし県側は、この基金が県の持つ債権を利用するという特殊なものであることから、その事務局は県で担当する必要があるとしてこの提案を受け入れることはなかった。提案は受け入れられなかったが、審査会の運営の事前調整の場である幹事