≪査読付論文≫決定プロセスの構造化理論:京都市市民活動総合センターの設立プロセスを事例として

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近畿大学教授 吉田忠彦


キーワード:

市民活動支援センター 構造化理論 ゴミ箱モデル 社会学的制度理論


要 旨:

 京都市市民活動総合センターは、最初の構想から12年を経て設立された。しかし、もともとの構想は市民の芸術活動や文化活動の支援を目的としたものであった。それが市長の交代、阪神淡路大震災とその後のボランティアブーム、NPOブーム、新市長の下での市民参加の重視など、いくつかのイベントや背景の変化によって、センターの名称やコンセプトを変化させた。またその変化は、センター計画に関わるアクターにも影響を与えた。このような計画とそれに関与するアクターの両者の相互作用と相互変化を説明するために、ゴミ箱モデルと構造化理論を検討する。そして構造化理論の応用モデルを提示する。


構 成:

Ⅰ はじめに

Ⅱ 京都市市民活動総合センターの概要

Ⅲ 京都市における市民活動支援センターの構想の流れ

Ⅳ 考察―理論の検討と応用―

Ⅴ おわりに


Abstract

 The Support Center for Civic Activities in Kyoto was established, 12 years after conforming the initial concept. But it differed from the first concept that aimed at supporting art and cultural activities by the Kyoto City citizens. Names and concepts of the Center were changed several times, which were triggered by replacement of a mayor, a big earthquake, a NPO boom, a considering of civic participation etc. And also those changes affected actors who concerned planning of the center. I suggest some limits of the Garbage Can Model and the Structuration Theory through analysis of this case. I present a revised model of the Structuration Theory in conclusion.


※ 本論文は学会誌編集委員会の査読のうえ、掲載されたものです。

Ⅰ はじめに

 京都市市民活動総合センターは、この種の施設が全国的に普及していた時期に設立され、設置形式も市が設置しNPO支援組織に委託するといういわゆる公設民営方式を採っており、制度化の流れに乗ったものと見ることができる。しかし、設立に至るプロセスを詳細に観察すると、単なる模倣的同型化の結果として片付けられない多様な経緯と意図の交錯があった。

 京都市では、阪神・淡路大震災の翌年に市長が交代したこともあり、市民活動支援センターの計画が急ピッチで進められた。しかし、市民活動センターのコンセプトは必ずしも固まったものがあったわけではなく、震災の前に提示されていた最初の構想は、その後に震災、市民参加、ボランティア、まちづくりといったいくつかの要因やそれに関わるアクターの活動によって何段階かの変遷を経ながら、また近接するセンターとの棲み分けの論理を模索しながら固められていった。

 このセンターの設立プロセスについては、すでに別の機会に詳細な記述を行っているが1)、本稿においては、このセンターの名称やコンセプトがどのように修正されていったかを中心に再構成し、ゴミ箱モデルおよび構造化理論による分析の限界を指摘する。そして、その限界を克服するひとつの試みとして構造化理論の応用モデルを提示する。


Ⅱ 京都市市民活動総合センターの概要2)

 京都市市民活動総合センターは、市民活動支援のための施設として2003年(平成15年)6月に京都市が設置したものである。このセンターは、小学校の跡地に建てられた地下2階地上5階建てのひと・まち交流館京都の2階フロアーの約半分の面積の650㎡の中に、大小の会議室、印刷室、ライブラリー、スモールオフィス、情報コーナー、ロッカー、メールボックス、自由スペースなどを備えた施設であり、誰もが自由に利用できる。来館者数は年間約10万人で、その他に電話での応対が年間で約3万件、講座やイベントも実施されている。

 管理運営はオープン以来、特定非営利活動法人きょうとNPOセンターが担っている。初年度の予算は人件費も併せて8,100万円であった。平成28年度では5,940万円となっており、予算こそ徐々に少なくなってはいるものの、公設民営の市民活動支援施設としては日本で最大級のものである。

 ひと・まち交流館京都は、まちづくりや福祉などの市民活動にかかわる諸施設が合築された複合施設であり、この市民活動総合センターに加えて、福祉ボランティアセンター、長寿すこやかセンター、そして景観・まちづくりセンターの合計4つの京都市のセンターが入るほか、京都市社会福祉協議会(社会福祉法人)、京都福祉サービス協会(社会福祉法人)、京都市老人福祉施設協会(一般社団法人)、京都市老人クラブ連合会(一般社団法人)、京都ボランティア協会(一般社団法人)などの福祉系の団体の事務所や、菊浜老人短期入所施設(京都市社会福祉協議会が管理運営)なども入っている。共用部分については京都市社会福祉協議会が管理団体となっている。


Ⅲ 京都市における市民活動支援センターの構想の流れ

1 後発となった市民活動支援センター計画

 公設民営の市民活動支援センターのモデルといわれる仙台市市民活動サポートセンターが設立されたのが1999年であり3)、それから遅れること4年、京都市もまた公募によって地元のNPO支援組織から管理運営団体を選び、公設民営で支援センターを設置した。その間には主要な都市の多くで市民活動支援センターの設置が進められており、京都市のセンターも、会議室、印刷室、ライブラリー、スモールオフィス、情報コーナー、ロッカー、メールボックス、自由スペースなどを備え、他市の多くの支援センターと同様の仕様となっていた。

 また、このセンターの仕様を検討する委員会では、仙台市市民活動サポートセンターの管理運営を担うせんだい・みやぎNPOセンターの理事のひとりが委員長を務めた。

 このような経緯を見るかぎりでは、京都市市民活動総合センターは仙台市のセンターをモデルとして全国各地で急速に設置されていった公設民営の市民活動支援施設の普及の流れに乗った事例のひとつに見える。また、社会学的制度理論でいうところの模倣的同型化が京都市市民活動総合センターを生み出したという見方もできるかもしれない。しかし、後述するように、関係者への聞き取りや京都市の関係資料の分析から明らかになったことは、他市での市民活動支援施設の設置の流れがプレッシャーになって京都市での施設の計画が始まり、その仕様も同型化の圧力にしたがったというのではなく、その元となった構想は仙台市の施設が生まれる前からすでにあったということであり、さらにその構想が何度かの変質を経たこと、そしてその変質にはさまざまな要素が関係しているということであった。


2 最初の構想

 最初の構想は、仙台市のセンターが設置されるよりも8年も前の1991年(平成3年)にすでに生まれていた。1989年(平成元年)に市長に就任した田邊朋之は、元は京都府医師会長も務めた医師であった。そうしたバックグランドもあって田邊は健康都市構想を打ち出した。その構想は懇談会によって1991年(平成3年)に「京都市健康都市構想(提言)」としてまとめられた(京都市[1992])。その構想においては5つの重点施策があげられ、その中のひとつである「創造を続ける暮らしづくり」のシンボル事業として市民創造活動センター創設の計画が明記された。これがそれから12年後に京都市市民活動総合センターとして実現する施設の最初の構想であった。

 しかし、市民創造活動センターのコンセプトは、市民学芸員の登録制度などを盛り込んだ生涯学習やボランティア活動などを支援するセンターというものであり、市民の余暇活動や生涯学習としての芸術活動や文化活動の支援がイメージされていた。それは、後に全国に普及するようなボランティアやNPOの活動の支援を行う市民活動センターとはかなり趣の異なるものであった。文字通り、市民の創造活動の支援センターが構想されていたのである。


3 阪神・淡路大震災と市長交代

 田邊市長による健康都市構想の下で構想された市民創造活動センター設立計画は、1993年(平成5年)にまとめられた新京都市基本計画「平成の京(みやこ)づくり」にも引継がれたが、具体的な実施計画がまだまとまらない中4)、1995年(平成7年)の1月に阪神・淡路大震災が起こった。この震災が日本の社会に与えた影響は大きく、京都市でも災害支援やボランティアが大きなテーマになっていった。

 さらに、この頃に田邊市長が体調を崩し、1996年(平成8年)の1月には任期途中で市長を辞任することとなった。その翌月に桝本賴兼が新しい市長となり、新市政のアクションプランの中にボランティアセンターの整備があげられた(京都市[1996b])。ここで市民創造活動センターの構想は、市民の文化・レクリエーション活動の支援からボランティア支援へとその重点が移っていき、名称もいつの間にかボランティアセンターとなっていた。

 新市政のアクションプランにおいては、高齢者を対象とする市民すこやかセンターとボランティアセンターの整備は、どちらもアクションプランの「ひとが元気」のカテゴリーの中にあることや、福祉分野であるということから、2つのセンターの一体的整備を前提とする基本構想策定が、京都市ボランティアセンター・京都市市民すこやかセンター(仮称)基本構想策定委員会に諮問され、1998年(平成10年)1月にその答申である「ボランティア活動推進のための基本方針」が出された(京都市[1998])。


4 ボランティアセンターの棲み分け

 1995年の震災の直後に多くのボランティアが被災地に駆けつけたことで、政府はボランティア支援の法律を計画したが、市民活動団体側からボランティアを支援するよりもその受け皿となる団体の設立や法人化のための法の整備が必要であるという声があがり、NPO法へと方向が転換し、それは1998年(平成10年)に特定非営利活動促進法として実現した5)

 震災の前からすでにNPOについての関心は高まっていたとはいえ、その法制度が実現するまでに至ったのは、やはり震災の与えたインパクトの大きさによるものだった。震災の翌年には日本NPOセンターが設立され、仙台、横浜、鎌倉、大阪、神戸、広島などでもNPOの支援組織が設立されていった6)。また、都道府県では特定非営利活動法人の認証事務が行政の仕事に加わった。都道府県に限らず、自治体ではNPOをはじめとする市民活動の支援が必要であることが認識されていった。

 京都市では1996年(平成8年)10月に設置され、1997年(平成9年)3月まで行われた市民活動推進懇談会の提言、元気な京都づくりアドバイザー会議の意見、ボランティア活動等市民活動推進調査報告などを踏まえ、基本方針とほぼ同じタイミングで「京都市ボランティア活動総合支援センター(仮称)の基本構想について」の答申が出された(京都市[1997d])。ボランティアを中心としながらも、「従来の領域ではとらえられない活動の支援」、「地域や各領域の活動をネットワークし、交流する仕組みづくり」など、市民活動全般にわたっての支援の方向性が示されたのである。そして、センターの仮称の中に「総合」という言葉が加わったのである。

 それと同時に、従来型のボランティアについては福祉分野を中心とするものであるということ、これまで京都市社会福祉協議会がボランティア・コーディネートの中心的な役割を果たしてきたこと、またその京都市社会福祉協議会が自前でボランティアセンターを設立していたということがあり7)、独立した福祉分野のボランティアセンターの設立が計画されることになった。つまり、ボランティアセンターは、従来の福祉を中心とする福祉ボランティアセンターと、分野を限定しないボランティア総合支援センターとに分けられたのである。


図1 京都市市民活動総合センター設立までの流れ


5 行政改革と市民参加推進

 市民活動支援センター設立のプロセスに影響を及ぼしたもうひとつの流れが、市行政内部の市民参加推進の動きである。

 1996年(平成8年)2月に市長に就任した桝本は、就任後間もなく行政改革や市民参加を検討するためのプロジェクトチームを発足させた。市民参加検討プロジェクトチームと名づけられたこのチームには各部署の中堅、若手が20名ほど集い、 8ヶ月ほどの期間中に40回以上の会議や調査を実施した(京都市[1997c])。しかも、それらのほとんどがこれまでの会議のやり方とはまったく異なるワークショップ形式で行われた。チームをひっぱるメンバーの一部は、それまでに多くの観光客で賑わう嵐山の公衆トイレの改築にあたって、住民や有志の建築専門家などが参加するワークショップ形式でこの計画を進め、このやり方に手ごたえを得ていた8)。そしてプロジェクトチームの報告書では、ワークショップを手法とした市民参加による公共施設づくりが提言され、その具体的モデル事業の1つとしてボランティアセンターの整備計画があげられた。また、そのコアメンバーは景観・まちづくりセンターの計画にも関わり、その中にワークショップルームを設置することを盛り込んだ。

 このプロジェクトチームが終了すると新たに市民参加推進プロジェクトチームがスタートし、4つのテーマに分かれて活動が行われた。その1つが市民活動支援センター整備となった。そして4つのテーマの内この市民活動支援センター整備計画と共同学習提案事業は、プロジェクトチームと同じ総合企画局の中に新たに正式な室として設けられたパートナーシップ推進室によって実現に向けての具体的作業を進められることになった。以後このパートナーシップ推進室が、市民活動総合センターの設立とその後を担当することになった(京都市[2000])。

 要するに、ボランティアセンターやその後の市民活動支援センターの整備計画は、行政改革の1つの方法としての市民参加方式による実践の場でもあったのである。


6 場所をめぐる流れ

 2003年に菊浜小学校跡地に新しく建設された、ひと・まち交流館京都に4つのセンターをはじめとしてまちづくりや福祉に関わるさまざまな施設や団体が収まることになったが、最初からその計画があったわけではない。各施設をめぐる状況やそれに関わる庁内部署、委員会、団体などのそれぞれの事情や対応があってのことであった。

 そもそも菊浜小学校をはじめとする京都市内の小学校の統廃合計画がまずあって、それに伴って跡地の利用方法を検討する審議会が、4つのセンターの計画よりも先に立ち上がっていたのである。京都市都心部小学校跡地活用審議会が設置されたのは1993年(平成5年)で、その前の年には菊浜小学校は廃校となっており、その跡地をどうするかは廃校が検討され始めた時点ですでに課題となっていたわけである。小学校跡地活用審議会はその後も継続されるが、この期では菊浜小学校を含む合計6つの小学校跡地の利用方法が検討された(京都市[1994])。

 一方では、京都市社会福祉協議会も公設のボランティアセンターの必要性を訴えると同時に、自らの新しいオフィスの場所を模索していた。1978年に設立されていた中央老人福祉センターも施設の老朽化が進んでおり、改築するか新しい場所に移転するかが検討されていた。さらに、1997年(平成9年)に京都市が全額出捐して設立された財団法人である京都市景観・まちづくりセンターも、その施設予定地の計画が変更され、新たな場所を模索していた(京都市[1997b])。

 最終的に、廃校となった6つの小学校の跡地は、基本的には既存の建物を活かす形で改修し、新たな利用の道が模索され、幼稚園、幼児教育センター、芸術センター、学校歴史博物館、高齢者総合福祉施設などとして利用されることになった。その中で菊浜小学校跡地だけはそこに新たな建物を建て、福祉やまちづくり関係がまとめられることになったのである。


7 センターの仕様をめぐる調整

 福祉ボランティアセンターとボランティア総合支援センターとに区分けされた後、1998年(平成10年)1月に出された基本構想策定委員会の「京都市ボランティア活動総合支援センター(仮称)の基本構想について(答申)」では、さらに後者については総合支援センターあるいは市民活動センターという名称が提言された(京都市[1998])。

 その後は、新たに設けられたパートナーシップ推進室がその具体的計画策定を担当することになり、1999年(平成11年)9月に市民参加推進懇話会が設置され、2001年(平成11年)3月には「市民参加の推進に関する提言」が出された。それを受けて計画が作られ、2003年(平成15年)8月には市民参加推進条例が施行された。また、センターの仕様を固めるために、2001年(平成13年)7月に市民活動推進協議会が設置された(京都市[2001b])。

 市民活動推進協議会はその年の12月に「市民活動支援センター(仮称)の管理運営方針について」をまとめ、さらに平成15年3月に「京都市市民活動総合センターの管理運営体制等について」をとりまとめた。それは平成15年6月の京都市市民活動総合センター開館のわずか3ヵ月前であった。これらの検討はぎりぎりまで行われたのである。

 公設民営の市民活動支援センターのモデルとなった仙台市のせんだい・みやぎNPOセンターの理事が、偶然に京都市内の大学に赴任してきたのでこの協議会の座長を務めることになった。また、この協議会によって公募の上で管理委託を受けることになったきょうとNPOセンターのリーダーも、仙台市のセンターをすでに視察していた9)。しかし、仙台市のセンターが安易に模倣されたわけではなかった。「管理運営方針」をまとめるために5回のプレワーキング、5回のワーキング、1回のワークショップ、3回の協議会が行われ、さらにその後にも「管理運営体制等」をまとめるために6回の協議会、16回のワーキング等、そして1回のワークショップが行われた。協議会のメンバーにはまだ20代の若者が数名迎えられ、ワークショップを交えて活発な議論が行われた10)

 最終的には仙台方式と呼ばれるような、市民委員を交えた懇話会、検討委員会を経て、市民活動支援団体を中心に公募して管理運営を委託するという形になり、設備などの具体的な仕様も仙台市やもうひとつの先行事例とされていた神奈川県の県民活動サポートセンターを参考にしたものとなったが、はじめからそれらを盲目的に模倣したのではなく、こうした濃密な検討の末のことなのであった。


Ⅳ 考察―理論の検討と応用―

1 ゴミ箱モデルのロジック

 京都市市民活動総合センターの設立は、さまざまな要素とアクターが絡んだ複雑なものであった。センターの名称やコンセプトの変遷そしてそれに関連する事がらを整理したのが図2である。これらの観察から、次の諸点を指摘することができる。

① センターの名称とコンセプトは、実際の設置までに何度か変化した。

② 震災をきっかけにしたボランティアや市民活動の支援センターの必要性の声の高まりに対応して、すでにあった市民創造活動センターの計画が転用された。

③ ボランティアからNPOや市民活動へと社会の注目や認識が変化するのに合わせて、福祉系のボランティアセンターと、市民活動の総合的な支援センターという区分けが行われ、2つのセンターの棲み分けのロジックとなった。

④ 市長をはじめとする庁内における行政改革や市民参加への重視が、センター設立を促すまた別の要因となった。

⑤ 先に存在していた小学校跡地利用の問題が、センター設置場所についての解となった。

⑥ センターの仕様や管理委託をめぐっては膨大な時間をかけた検討がなされた。

 ここでの決定のプロセスは、まず構想が描かれ、次にそれを具体化するための実施計画が立てられ、そしてそれに従って執行がなされるという、いわば経営計画論や経営戦略論が説くような整然としたものではなかった。最初の構想は状況の変化によって別の構想に読み替えられ、さらにそこに別の意図が付け加えられたり、再定義されたりした。また、問題や課題が知覚されて解を探したというよりは、解は別のところで先に存在していた。

 このような現実の決定プロセスの様子を記述するモデルとして代表的なものが、Cohen, March and Olsen[1972=1992]のゴミ箱モデルである。そこでは選択機会、参加者、問題、解はそれぞれ別々に流れており、それらが結びついて1つの決定としてまとまるのは、ほとんど偶然と見なされる。ゴミ箱とは選択機会を見立てたもので、そこに参加者、問題、解が無秩序に投げ込まれる。また、ゴミ箱である選択機会自体もいくつかのものが流れており、あるゴミ箱に投げ込まれた問題や解などが、改めて別のゴミ箱に投げられたりする。そして、決定のスタイルも問題の「解決」だけではなく、問題の「見過ごし」や別の選択機会への「飛ばし」が含まれる。


図2 センター計画の変遷


2 ゴミ箱モデルの限界

 しかし、ゴミ箱モデルは確かに現実の複雑な決定プロセスをよりリアルに記述することはできるものの、Marchら自身が後に指摘するように、一時的調和に焦点を置く還元論となっている11)。つまり、さまざまなアクターや事象が絡み合って全体としての決定や政策が形成されるというロジックは、全体は個別のものの集合であり、したがって全体は個別のものに還元できるというものである。また、それぞれ独立的に流れている選択機会、参加者、問題、解が結びつくのはタイミングの問題、すなわちそれらの要素の同時的存在性によるということは、その決定が外部で独立的に形成される要素に依存するということになる。つまり、組織の政策や意思決定が外的なものに依存するという環境決定論となっているのである。

 さらに、ゴミ箱モデルは外部の観察者からの視点による記述論であり、実践に向けての含意は薄い。この点からゴミ箱モデルの修正を試みたのがKingdon[2011=2017]の政策の窓モデルであり、さらにその改訂を試みたのが小島らの一連の研究である(小島廣光[2003]、小島廣光、平本健太[2011])。これらの研究に共通するアイデアは、諸要素の同時的存在性だけではなく、そのタイミングをとらえて自らの意図に合うように働きかけをするアントレプレナー(あるいはアクティビスト)の役割を組み込もうとする点である。政策の窓が開く時に、自らの意図にとって有利となるように、自らのリソースを投入してアジェンダを押し上げていくキーパーソンが、実際のケースでも観察できるというのである。Kingdon[2011=2017]では、そうしたアントレプレナーの資質などについても論じられている12)

 これは経営学にとっては馴染みやすい議論であろう。しかし、特別な資質を持つアントレプレナーを持ち出してみても、その特別な資質や駆使するリソースは外部において先に保有されていることになっているため、あいかわらず還元論であり、環境決定論なのである。どのようにしてそのアントレプレナーは出現するのか。つまり、ある特定の