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≪査読付論文≫NPO支援組織と制度ロジック変化―アリスセンターのケース― / 吉田忠彦(近畿大学教授)

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近畿大学教授  吉田忠彦


キーワード:

アリスセンター NPO支援組織 制度ロジック 中間支援組織 サポートセンター 

制度的複雑性


要 旨:

 NPO支援組織がどのように発生し、どのようにひとつの制度として普及していったのか、 そして組織はその制度とどのように向い合うのかを、NPO支援組織の先駆的存在といわれるアリスセンターを事例として分析する。アリスセンターは市民運動のロジックを土台としながら、NPOや中間支援組織の制度のロジックを選択的に取り込みながら事業を選択した。 このケースを制度理論や制度ロジックという概念を用いて分析する。


構 成:

I  はじめに

II 分析対象と方法

III 事例の分析

IV ディスカッション

Ⅴ まとめ


Abstract

 This study analyzes how NPO support organizations emerge, how they spread as an institution, and how organizations interact with this institution, using the ALICE Center, which is considered a pioneer of NPO support organizations, as a case study. The ALICE Center bases its selection of projects on the logic of the civic movement, while selectively incorporating the institutional logics of the NPOs and intermediary support organizations. This case was analyzed using the concepts of institutional theory and institutional logic.


※ 本論文は学会誌編集委員会の査読のうえ、掲載されたものです。


 

Ⅰ はじめに

 日本においては1995年に発生した阪神・淡路大震災を契機として、特定非営利活動促進法の成立をはじめとした日本独自のNPOの制度化が進展した。日本でNPOという場合、それは文字通りの非営利組織(NPO:Nonprofit Organization)全体を指すのではなく、公益法人をはじめとした既存の非営利法人とは区別された新しい概念としてのNPOを指している。公益法人等の既存の非営利法人制度は、主務官庁による許認可や指導監督など官のコントロールが強く、市民の自発的な活動の受け皿となるどころ か、むしろ足かせにさえなっていると指摘されていた。こうした認識の下に、市民の自発的な活動の受け皿となるような柔軟な制度を築くという共通の目的のもとに、さまざまな分野の団体や個人が関与し、阪神・淡路大震災の発生から3年を経てNPO法は成立したのである。  

 こうした日本独自のNPOの構築を目指した活動は、NPO法成立だけに向けられたわけで はない。それに先立って「シーズ・市民活動を 支える制度をつくる会」といったアドボカシー活動団体が発足したり、サポートセンター、中間支援組織などと呼ばれるNPOの支援組織の設立なども進められた。特に支援組織については、「日本NPOセンター」、「NPOサポートセンター」、「NPO事業サポートセンター」などの全国をカバーする、いわゆるナショナルセンターと同時に、都市部を中心に各地で地域の支援組織の設立が、NPO法成立前後に相次いだ。  

 さらにNPO法人の設立が進むにつれて、自治体による地域の市民活動を支援するための施設の設置も普及していった。このような支援施設をNPO支援組織に管理・運営させる公設民営方式が、まだ市民活動支援のノウハウの蓄積が薄かった自治体、支援事業の場や財源の確保が難しいNPO支援組織の双方にとって好都合であったため、都市部を中心に急速に普及していった。そしてまたこの自治体による支援施設の設置が、各地のNPO支援組織の設立とその存続を支えることになった。やがてNPO法人や市民活動を支援する組織は、「サポートセンター」という呼び名から「中間支援組織」という呼び名が一般的になっていった。  

 本稿においては、このようなNPO支援組織がどのように発生し、どのようにひとつの制度として普及していったのか、そして組織はその制度とどのように向い合うのかを分析するために、NPO支援組織の先駆的存在といわれるアリスセンターを事例として取り上げ、組織論における制度理論や制度ロジックという概念を用いて分析する。


Ⅱ 分析対象と方法

1 まちづくり情報センターかながわ(アリスセンター)

 本研究で分析する対象は、日本独自のNPO およびそれらを支援する組織の制度化と、その制度化の中で自らのアイデンティティや事業を模索した「まちづくり情報センターかながわ(通称・アリスセンター)」(以後アリスセンター)である。  

 アリスセンターを分析対象とする理由は、それが日本におけるNPOサポートセンター、中間支援組織の先駆的存在と目されており、以後に設立されるNPO支援組織に影響を及ぼし、 その制度化の源泉の1つとなったと考えられるからである。日本において「NPO」や「中間支援組織」という言葉や概念が生まれる前から活動していたアリスセンターは、自身が日本独自のNPOやNPO支援組織の制度化の源泉となる一方で、その制度化の流れと向かい合いながら、自らのアイデンティティと事業を探索したのである。

 NPO支援組織は「サポートセンター」、「NPO 支援センター」、「中間支援組織」というような名称のゆれが生じているだけではなく、法人格、 事業内容、設備、従事者の資格など、その具体的実態についても多様かつ曖昧で、明確に定義することは難しい。実際、NPO支援組織に関する唯一の公的調査報告書である内閣府の 『NPO支援組織レポート2002』においても、「多元的社会における共生と協働という目標に向かって、地域社会とNPOの変化やニーズを把握し、人材、資金、情報などの資源提供者とNPOの仲立ちをしたり、また、広義の意味では各種サービスの需要と供給をコーディネートする組織」と定義されているものの1)、その調査対象となっているものにはボランティアセンター、市の生活情報センター、さらには日本 NPO学会というようなものなどさまざまな団体が含まれている2)。  

 より実態に則したものとしては、日本NPOセンターが全国の支援センターをリストする際にあげた、①(個人ではなく)NPOの組織支援を主としている、②NPOの組織相談に対応できるスタッフが常勤している、③分野を限定せ ずに支援をしている、という3項目からなる基準がある。日本NPOセンターでは、この基準に従ってホームページに団体をリストしているが3)、1988年設立のアリスセンターはその中で最も早く設立されたものとなっている。

2 分析の方法

 本研究では、いかにして制度化が進み、その中で組織がその流れに対してどのような対応や相互作用を行うかを分析する。そのため、日本独自のNPOやNPO支援組織の制度化の流れの中における特定の組織の行動を長期的に観察する。  

 具体的な調査方法としては、まず第1にドキュメンツ分析を行った。アリスセンターが活 動を開始した1987年から約10年にわたって刊行した機関紙『らびっと通信』250号分、その後を引き継いで刊行された機関誌『たあとる通信』 40号分、その他アリスセンターや関係者によって刊行された報告書や雑誌記事等のドキュメンツを収集し、分析した。  そして第2に、歴代の事務局長や理事などの関係者へのインタビューである。これは2001年より2021年までの20年間に約10名の関係者を対象に断続的に行った。ひとりあたりおおよそ2 時間程度のインタビューを2回から3回行った。また、直接の関係者ではないもののアリス センターと重要なかかわりがあった人物に対してもインタビューを行った。  

 さらに、アリスセンターの事務所を訪問したり、アリスセンターの主催する研究会、アリスセンターのスタッフが登壇するパネルディスカッションなどにも参加し、観察を行った。

 これらの調査によって得られた情報から、アリスセンターに関する詳細な年表を作成した。 また、その設立の背景から現在に至るまでのモ ノグラフを作成した4)。この年表とモノグラフは、インタビュー対象者によるチェックを受け、 事実関係の確認を行った。  インタビューは事前に質問項目を送付した上で行ったが、話題が広がることをコントロール はせずに、ほぼオープンエンドでインタビュー対象者が自由に話すことを重視した5)


Ⅲ 事例の分析

1 アリスセンター設立の背景と経緯

 アリスセンターは1988年に設立された。そのきっかけは、長洲一二神奈川県知事を囲む会において、生活クラブ生協神奈川の理事長だった横田克己が神奈川県における市民活動の情報センターの必要性をスピーチの中で訴えたところ、かつて飛鳥田一雄横浜市長の右腕として活躍した鳴海正泰と、建築家で後にアリスセン ターの代表となる緒方昭義とが反応し、その実現に向けて3人が動き出したことにある。緒形は建築事務所を構える一方、学生時代から市民運動に関わり、生活クラブの他にも米軍基地住宅建設に反対する池子の森の活動や、逗子市の 市長選挙などにも関わっていた。  

 アリスセンターと言う通称は、設立の中心となり設立後は代表となった緒形がまちづくり情報センターかながわという団体の英文名として、 「Center for Alternative Live Intelligible Community & Environment」としたものを、最初の2文字を省いた頭字語が偶然「ALICE」となったことによる。この英文名は最初の団体パンフレット6)には最初の「Center」が「Base」と変 えられ、「もうひとつの、いきいきとした、わかりやすい地域社会と環境づくりのための基地」 という訳が付けられている。これが緒形たち設立者が目指した団体の姿と考えてよいだろう。  

 1980年代にはこの「もうひとつの(Alternative)」がキーワードのひとつとなっていた7)。 それはかつてのカウンターカルチャーのなごりでもあったし、政党や労働組合などに先導されたかつての運動から生活者目線での運動へのシフトも意味していた。とりわけ神奈川県では米軍基地があり、それに対する運動がさかんだったり、神奈川県、横浜市、藤沢市など革新自治体が多かった。さらに、生協を中心にした生活クラブの活動も活発だった。1986年にチェルノブイリ原発事故が起こったことも反原発運動などの市民活動を活発化させていた。  

 一方、従来の運動やボランティア活動から新しい展開を目指す動きも現れはじめていた。とりわけ1984年に翻訳刊行されたリップナック= スタンプスの『ネットワーキング』は、そうした新しい展開を模索していた人びとを触発し、 各地で多様な市民活動のゆるやかなつながりを目指す活動が起こった8)。  

 アリスセンターの設立発起人には緖形、鳴海、 横田の他に青木雨彦(評論家)、いいだもも(評論家)、須見正昭(平和運動家)、横山桂次(中央大教授)、服部孝子(横浜消費者の会)、又木京子(神奈川ネットワーク運動)といった市民運動に関係する者が多かった。  

 また、運営委員にはやはり緖形、鳴海、横田 の3人、そして岩崎容子(鎌倉市議)、上林得郎 (神奈川県自治研センター)、佐野充(日本大学)、 嶋田昌子(中区女性フォーラム)、服部孝子(横浜市消費者の会)、安田八十五(筑波大学)、柳谷あき子(藤沢市議)、渡部允(ジャーナリスト)、関一郎(弁護士)らが就いた。緒形はその代表となった。

2 スタート時の事業の模索

 緖形、鳴海、横田の3人を中心にアリスセンター設立計画は動き出し、横田は生活クラブ生協からスタッフがアリスセンターに出向するという形でその人件費を負担した。横田はその後は直接的にはアリスセンターの運営に具体的には関与はせず、緖形、鳴海が中心となってアリスセンターの運営を支えた。  

 スタート時のスタッフは専従1名、アルバイト2名だった。事務所は緒形の建築事務所と同じ建物の同じ階に置かれた。スタッフ3名の人件費は生活クラブ生協から、事務所の賃貸料は会費から賄われた。いずれにしても、アリスセンターはスタート時より固定的な事務所と常駐する複数のスタッフを備えた団体だったのである。  

 運営委員会を中心にして設定されたアリスセンターの目的は、次の3点にまとめられた9)

  • ① 今日の社会のあり方に疑問を持ち、新しい生き方や社会を創ろうと考えている人々が相互に交流する場をつくります。

  • ② 広く資料や情報を収集・ストックし、様々な創造的行動のための知識べースとして活用します。

  • ③ 蓄積された情報や部分の合意をもとに、問題を新しい視点から提起し、解決するための具体的なプログラムを研究・開発します。  

 この3点は、後には①情報交換の拠点(市民活動の情報センター)、②支援センター、③シンクタンクという形に整理された。  

 3人のスタッフは学生時代に選挙の応援活動 や自由ラジオ10)などの経験はあったものの、いずれも30代前半から20代の若者で、本格的な活 動の経験はなかった。それに、そもそも他に類似の団体がなく、具体的な事業の内容は決まっていなかった。この時の様子を最初の事務局長だった土屋真美子は次のように述べている11)


「あまりにも漠然としたこの目的の前に、 スタッフは何を具体的にして良いのやら理解できず、大変悩んだ。とりあえず取り組 めそうなのは①の情報交換の拠点である。 まずは情報を集めて発信しようと、「らびっと通信」という情報誌を「月2回」のペースで発行することにした」。


 また、スタート時のもう一つの事業として「ワンダーランド・神奈川」と名づけられたパソコン通信ホスト事業が行われた。まだインター ネットがなかったこの時代では、パソコン通信は新しい通信手段として注目を集めていた。このパソコン通信の事業は、むしろ情報センターとしてのアリスセンターの中心的なものとして スタート時から開始されたが、2、3年のうちに事業は低迷し、まもなく終了となった12)

3 情報サービスの転回

 3人のスタッフは、設立時の構想の内の「① 情報交換の拠点(市民活動の情報センター)」を最初の目標とし、その具体的事業として情報誌の発行を行った。これはスタッフが神奈川県内の市民団体やそのイベントなどに出向いて情報を集め、それを紹介するといったものだった。 しかし、その情報サービスのあり方については、 開始から数年で大きな転回が行われた。スタッフが苦労して集めた市民団体の情報は、一体何のためのものだったのかを再検討せねばならない事態が起こっていたからである。  

 それは、アリスセンターへの問い合わせの多くが市民団体からではなく、行政、マスコミ、 コンサルからのものだったということである。 この当時のことを土屋は次のように振り返っている13)


「ただ、この時期あたりからスタッフは妙なことに気づきはじめてもいた。相談や間 い合わせは徐々に増えてきたのだが、その多くが行政やマスコミからの問い合わせな のである。たしかにアリスセンターは認知されはじめ、市民からの情報の提供は多く なっていたので、らびっと通信の情報欄は 充実してきていたが、具体的な市民団体からの相談よりもマスコミや行政からの問い合わせの方が圧倒的に多い。「本来、市民 活動のための情報センターなのに、なぜか?」と自答して出た結論は、現在アリスセンターで取り扱っている情報は、市民として発信したい情報ではあるが、自分たちが欲しい情報ではないのかもしれない、ということだった」。


 ここで、自分たちが何のために情報センター を作ろうとしていたのかを問い直し、「市民活動の情報」ではなく「市民活動のための情報」 を提供するという転回をしたのである。これについてスタッフだった川崎は以下のように振り返っている14)


「すでにある情報やノウハウを行き交わせるだけでは、市民活動にとってそれほど有 益なセンターとはならないということがわかってきた。市民活動にとって本当に有益 なのは、多くの市民団体がもっていない情報やノウハウであり、そうした情報やノウ ハウを蓄積し、提供することが必要なのだと考えるようになった」。


 市民活動にとって有益な情報やノウハウを提供することをあらためて考えながら、スタッフたちは具体的事業をさらに模索していった。

4 事業の探索と深化

 月2回の機関紙の発行はその後も続けられたが、そこでは市民活動団体によるイベントのアナウンス、掲示板としてのパートと、市民活動に関係するトピックの特集記事のパートとの2部構成となった。  

 そして、市民活動の事務局を担うという事業が新たに加えられた。これはアリスセンターが常設の事務所とスタッフを抱えていたことで引き受けることになったものだったが、それによってさまざまな関係者や団体のネットワークのハブとしての役割を担うことになり、アリスセンターは神奈川県の市民活動の中での存在感を高めることになった。1990年には「アースデイかながわ連絡会」の事務局を担い、そこから 『地球を救う127の方法』というリーフレットを発行することになったが、チェルノブイリの原発事故がまだ記憶に新しい中でこのリーフレットは評判となり、8万5千部も発行することになった。その後、1992年に「ファイバー・ リサイクル・ネットワーク」の事務局を担い、 古着のリユース事業は定期開催されることになった。  

 同じ時期にはじめられたもう1つの事業が委託調査だった。初めて受託した調査は、あき缶処理協会から受けた「商店街における廃棄物処理の実態調査」だった。アリスセンターが環境問題に関わっていたことから依頼があったものである。調査といってもポイ捨てあき缶の数を数えるというものだったが、これが委託調査を事業とするきっかけとなった。そして横浜市などから委託調査を受けるようになり、アリスセンターを支える重要な収入となっていった。またこの時期にはトヨタ財団から助成を受け、「市民活動マネジメント」に関する調査や講座を行ったりもしている。  

 これまでの情報センターとしての活動の蓄積、それによって築いたネットワークを活かし たシンクタンク的な事業が、アリスセンターの中で徐々に大きくなっていったのである。そして、特に行政からの委託事業について、法人格がないことがネックとなることがあり、それを解消するために有限会社の「アリス研究所」が 設立された。これは委託事業を受けるための形式的な会社であり、緒形と初代事務局長だった土屋が代表という形であったが、内部の実態としてはその業務もこれまでのアリスセンターのスタッフでまかなわれた。  

 アリスセンターが積極的に委託事業を引き受けることに対して、市民運動の世界で指導者的立場にあった須田春海から忠告を受けたが、事務局長だった土屋は「他に方法がない」と反論したという15)。いわゆる市民運動は、抗議活動やビラ配布などのアドホックな活動を中心とし、常設の事務所やスタッフを置くことはなかったが、アリスセンターはそうではなく、それらを備えたセンターであることがそもそもの設立の目的だったのである。とはいえ、生活クラブからの人件費負担もいつまで続くかわからず、事務局長だった土屋は、事務所とスタッフを抱えるアリスセンターを維持することに腐心していたのである。当時のことを土屋は次のように振り返っている16)


「生活クラブ生協のスポンサーは6年間続いたが、基本的には人件費のみで「活動費 は自分で稼げ」という方法だった。それゆえ、会費をつのったり、業を行って活動費 をひねり出すのが要求され、スタッフは月末には預金通帳をながめて青くなる、とい うまさに自転車操業状態だったが、結果的にはこれによって自立のノウハウが蓄積さ れ、活動の基盤が確立できたのである」。


 これがアリスセンターの事業探索の一方の動機であり、また事業を深化させる動機でもあったのである。設立者たちから引き継いだ市民運動の精神をコアにしながらも、維持費の確保が必要な体勢による必要性から、従来の市民運動の組織とは異なる事業展開が模索されたのである。本体はあくまでも任意団体としながら、行政からの委託事業を受けるための有限会社を併設したのもその結果だったのである。

5 NPO法の影響

 1995年の1月に発生した阪神・淡路大震災は、 多大な被害と社会へのインパクトをもたらした。行政機能が麻痺する一方で140万人ともいわれるボランティアによって被災地支援が行われ、それは「ボランティア元年」と評された。 公益法人をはじめとする既存の非営利法人制度の問題点は以前から指摘されていたが、具体的な法人制度改革に向けての動きはこの阪神・淡路大震災をきっかけとした。  

 そして1998年に成立した特定非営利活動促進法(NPO法)はアリスセンターにもいくつかの大きな影響を及ぼした。まず第1に、アリスセ ンターが新しいNPOのサポートセンターの先駆的存在として認知され、全国的に注目されるようになったことである。NPO法成立に向けての動きの中で、一方では新しいNPOの設立やネットワークづくりを支援するセンターの設立が増えていった。1996年の11月に設立された 日本NPOセンターをはじめとして、1996年には市民フォーラム21(4月)、シンフォニー(4 月)、NPOサポートセンター(4月、NPO推進フォー ラムが改称)、CS神戸(10月)、大阪NPOセンター (11月)などが、翌年の1997年にはNPO政策研 究所(5月)、広島NPOセンター(9月)、せん だい・みやぎNPOセンター(11月)などが設立され、その後も都市部を中心に続々と支援センターが設立されていった。1998年12月にNPO法が施行されるよりも前からNPO法人設立急増を見据えて、各地でそれを支援する体制作りが進んだのである。  

 それらのNPO支援センターのナショナルセンターと目されていた日本NPOセンターが、 設立して間もなく発行した機関紙の準備号で、 アリスセンターは裏面一面のスペースを使って紹介された17)。また、日本NPOセンターによる 毎年のイベントとなるNPOフォーラムの第1回目の現地事務局としてアリスセンターが選ば れた。こうしてアリスセンターは全国的に知られるようになり、スタッフはさまざまなフォーラムやセミナーに登壇したり、他の団体から相談を受けるようになった。  

 NPO法の影響の第2は、アリスセンターの事業の競合者の出現をもたらしたことである。 NPO法成立によってNPO法人設立が増加することが確実となり、それに対応するための体制作りの必要性から、その参照先としてアリスセンターは全国的な注目を浴びるようになったが、支援体制づくりは民間だけではなく、行政の方でも進められた。都道府県ではNPOの認証事務を行う部署が設置され、そこでは単に認証の手続きだけではなくその支援事業の必要性も認知されたのである。行政によるNPO支援は、そのための施設を設置するという形で進行した。その初期において全国的に大きなインパ クトを与えたのが、神奈川県による「かながわ県民活動サポートセンター」だった18)。それは、 その後もそれを凌駕する施設が現れないほどの規模を有するものであった。また、会議室や作業設備などを市民に提供する施設ではあったが、そうしたハード面だけにとどまらず、徐々に支援のプログラムを備えていくことになった。この県民活動サポートセンターの出現は、 全国の自治体による支援センター設置の動きを刺激した。もちろん、神奈川県下の自治体にも大きな影響を及ぼし、表1のように続々と行政による市民活動センターの設置が進んだのである。これらの行政が設立する支援センターは、 市民活動支援というプログラムにおいてアリスセンターの事業と競合したばかりではなく、さらにそのセンターの運営をいわゆる中間支援組 織と呼ばれる組織に委託で(その後には指定管理者として)任せるようになり、アリスセンターの行う事業と競合するNPO支援組織を増加、 成長させることになったのである。  

 さらに第3として、アリスセンター自体の NPO法人化に関わる事がらがある。アリスセ ンターは法人格を持たない任意団体として10年にわたって活動してきたが、NPO法成立に向けた運動にも参加し、NPO法が成立したのを受けてすぐに法人化した。その際に、これまで設立以来10年にわたってアリスセンターを支え てきた運営委員会のメンバーから一新されたメンバーによる理事会が組まれた。アリスセンターの顔だった緒形だけが理事長として1期だけ残り、他はこれまでよりずっと若いメンバーが理事となった。さらに役員の任期は2年とされ、その再任は1度だけとされた。緒形については最初の1期だけ理事長を務め、その後任には緒形より40歳も若い大学助手の饗庭伸が就くことになった。NPO法人化に伴って定められたこの2年2期までという役員任期は、その後 アリスセンターの役員の顔ぶれを4年ごとに入れ替えていくことになるのである。


表1  神奈川県内の公設市民活動支援施設の設立

6 低迷とその後

 公益法人をはじめとする既存の非営利法人は、主務官庁の許可主義や設立後の指導監督など、官によるコントロールが強く、また税制優遇資格との不分離性などがあり、それとは異なる市民が主体の法人制度を作ることがNPO法を作るのにコミットした市民団体側の目的だった。それが既存の非営利法人とは切り離された日本独自のNPOを生み出した。そうした市民主導のNPOを先導する存在としてNPO支援組織の重要性が指摘され、そしてその先駆的存在としてアリスセンターは全国的に注目されることになった。  

 しかし、知名度が高まる一方でその足元は崩れはじめていた。市民活動を支援する活動の必要性は広く認知され、行政による支援施設が続々と設置され、支援組織も増加し、そのキャパシティも高まっていった。とりわけアリスセンターの活動の地元である神奈川県、横浜市においては、革新自治体であった時期が長かったこともあり、それらの施設や組織が揃っていくスピードは速かった。それらが行う事業は、これまでアリスセンターが探索し、軌道に乗せつつあったものと同じだったのである。それどころか、行政の施設はスペースや資金などの面においてアリスセンターより豊富であり、多くの利用者を集めていた。そしてその施設の管理・ 運営の仕事を受託した支援組織も同時に成長していった。  

 ところが、行政による支援施設やそれを管理・ 運営する支援組織が増加し、成長していく中で、 その方向性がアリスセンターの目指すものとは微妙なズレを見せるようになっていった。新しいNPOの世界では、積極的に行政との協働が進められ、かつての市民運動のように行政に対して抗議したり、要望を突きつけるというような活動は避けられるようになっていたのである。また、行政の設置した施設で行われる市民 活動やそれを管理運営する支援組織の事業も、自ずと行政の枠組みの中でのものに制限される傾向が見られるようになっていったのである19)。この点について、川崎は次のように述べ ている20)


「行政の委託事業としての市民活動・NPO支援では、NPOの政策提案、特に政治的に争点となるような取り組みを支援することは難しい。民設民営の中間支援組織であれば、政治的 な争点に関わる問題に取り組むNPO、例えば原発のない社会をめざすNPOや自然保全のために開発計画に反対するNPOなどにも、組織として賛同して行動をともにすることもできる。  

 NPOが新たな法律や条例の制定などをめざす場合、民設民営の中間支援組織であれば、ともに国会や自治体議会に働きかけるような活動もできる。しかし、公設公営や公設民営の市民活動支援施設の事業の一環としてはそこまでは路み込めない。政治的な争点に対して中立であること、そして設置した自治体の政策から逸脱しないことが求められる」


 行政と対立することがあるのも常識だった市民運動の精神を受け継いだアリスセンターで は、こうした流れを批判的にとらえ、行政の設置した支援施設の管理運営の事業には手をあげなかったのである。その一方では、後発の支援組織がその仕事を得て、組織としての経営基盤を安定させていった。  

 そしてアリスセンターでは、収入の柱だった行政からの委託事業の減少に直面していた。アリスセンターが設立された1988年ごろはバブル景気のピークであり、行政においても財政的な余裕があり、さまざまな社会課題への取り組みや市民活動への支援など多様な取り組みがなされ、その中のいくぶんかがアリスセンターへの委託事業となっていた。しかし、バブル経済崩壊がはじまり、行政の財政も引き締められて いったのである。  

 こうした状況の中で、2001年3月には初代事務局長だった土屋がアリスセンターを去った。 土屋がアリスを去った理由は、アリス内部の事情やトラブルによるものではなく、新しい 「NPO」や「NPO支援」の流れに対する違和感からのものだった。土屋は日本における新しい「NPO」が隆盛しはじめ、その中での自分たちのヘゲモニーを期そうとする人びとに対して違和感を覚えた。それにもかかわらず、これからの新しい「NPO」界を引っ張っていこうという人たちの輪の中に、アリスがむしろその先輩格として巻き込まれてしまっており、言いようのない居心地の悪さを感じ、もうアリスを辞めるしかないと思ったという21)。  

 そして、土屋とともに初期からのスタッフで2代目の事務局長だった川崎も、2006年に家庭の事情などによってアリスセンターを去った。 その後任には公募によって国際機関で働いていた藤枝香織が選ばれた。役員の方は、NPO法人になった際に作られた定款で任期が2年2期までとされていたために、法人化前のアリスセ ンターの関係者は誰もいなくなっていた。もちろん、役員任期後も会員としてアリスを支える者が多かったが、かつての運営委員会でもアリスの事業が軌道に乗ってからは、現場スタッフの提示する事業計画のほとんど承認機関になっていたし22)、初期からの関係者はすでにかなりの年配になっていた。さらに、この任期の制限によって適任者が枯渇し、神奈川県在住の役員 がほとんどいなくなり、理事会も東京で行われるようになっていた23)。会員の数も初期からの人的なつながりが希薄化する中で徐々に減っていった。  

 厳しい状況の中で事務局長に就任した藤枝 は、『たあとる通信』の発行も続け、委託事業も受託していたものの、徐々に活動は低迷し、 やがてアリスセンターの解散を検討するようになった。そして、その時点での役員たちと解散 の方向を取り決めた。しかし、先代の事務局長だった川崎にその件を相談したところ、これまでのアリスセンターの役員、会員などの関係者 の意向を聞くべきであるとの示唆を受け、ちょうどアリスセンター設立の25周年の時期にも重なっていたために、これまでの活動の総括と今 後のことを検討する機会として25周年記念集会と、『たあとる通信』でのその特集を組むことになった24)。この25周年の事業を企画する段階で、藤枝はアリスセンターを離れ、川崎やかつての理事であった内海宏、菅原敏夫、鈴木健一などが役員となり、心機一転が図られることになり現在に至っている。


Ⅳ ディスカッション

1 発見事象

 以上、アリスセンターの設立とその事業展開を時系列的に記述することによって発見された事象は以下のようなものである。

  • ① アリスセンター設立を構想したメンバーたちは市民運動との関わりが強く、その精神がアリスセンターの基本的な価値、理念となっていた。

  • ② 設立時には具体的事業はまだ決まっておらず、設立されてからスタッフによって事業が探索された。また、事業の探索はその後も継続された。

  • ③ 情報をめぐる事業は、「市民活動の情報」 から「市民活動のための情報」へという転回があった。

  • ④ 「NPO」、「サポートセンター」、「中間支援組織」などの言葉や概念は、アリスセンターが事業を探索し、実行した後から出てきた。

  • ⑤ アリスセンターは「NPO」、「サポートセ ンター」、「中間支援組織」などの言葉や概念が社会的に一般化することを利用しようとした。しかし一方で、その流れに対して疑問を持っていた。

  • ⑥ 自らの基本的な価値や理念を「市民運動」 に置き、それは事業や団体の位置づけが変わっても変わることがなかった。

2 考察

 本稿の問題意識は、NPO支援組織がどのように発生し、どのようにひとつの制度として普及していったのか、そして組織はその制度とどのように向い合うのかということである。

 ここでいう制度とは、諸組織間や組織フィー ルドで形成される認知的な標準様式、そしてそれによってもたらされる形式やシステムなどを指す。組織はどのように行動したり、その構造を変化させていくのかを説明するのに、合理性を追求するため、あるいは環境に適応するためと説明されてきたが、合理性の追求や環境への適応という組織の行動をより正確に、現実的に説明するために導入されたのが制度という概念だった。  

 組織は合理性を追求しようとするが、どういう行動をとることが合理性につながるかが評価しにくい場合、あいまいな場合には「正当性」 を追求する。合理性と組織の実際の活動との関係性が不明確な場合、両者の関係が緩やかなも のにされたり(ルースカップリング)、直接的な関係づけが放棄(ディ・カップリング)されたりする。そして組織で実際に行われている活動が合理的なものであると正当化(神話化)される。 こうした正当性という文化的、認知的側面が組織の構造や行動を規定するというのが制度という概念を導入した説明である。  

 この制度を概念とした理論は多くの研究者の関心を集め、さまざまな議論が展開されている。その中でも、この制度がどのようにして形成さ れるのかについては多くの議論が展開された。 DiMaggio and Powell(1983)による同型化という概念はその中心概念となっていた。諸組織は正当性を追求するために、正当性があると見なされた組織の活動や形態を採用(模倣)する。 これによって諸組織の同型化が生じる。さらにその諸組織の同型化は個々の組織に圧力となり、同型化の流れが強化される。このようなプロセスによって諸組織間や組織フィールドで形成される認知的な標準様式、そしてそれによっ てもたらされる形式やシステムなどが制度を形成するというものである25)。  

 しかし、同型化しながら制度が形成されるという説明だけではその制度の最初の発生や変化が説明できないことから、それを説明する概念として注目されるようになったのが制度ロジックであった。これは制度というものはワンピー スなものではなく、組織や組織フィールドにいる人びとの認知的なものであり、そこにはそれを認知したり、正当性を認める価値や信念や規範といったものがいくつか混合された状態で存在するというものである。こうした制度を形成するものが制度ロジックである。Thorntonらは制度ロジックを「社会的に構築された、歴史的な文化的シンボルと物質的実践のパターンから得られる、さまざまな価値、信念、規範、関心、アイデンティティ」と定義している26)。また、Greenwoodらは「組織の現実をどのように解釈するか、何が適切な行動を構成するか、 どのように成功するかを規定する包括的な原則のセットである。言い換えれば、ロジックは、 社会的状況をどのように解釈し、機能させるかについてのガイドラインを提供するものである」27)としている。  

 本稿で取り上げたケースにおいては、「NPO」、「中間支援組織」を制度ロジックとして捉えることができるだろう。もちろん、「NPO」については実際にNPO法という法律制度となっているが、それを条文から構成された法制度として見るだけでは「NPO」を十分 には論じられない。諸活動の結果として成立、 施行されたNPO法は、既存の非営利法人制度の改革の流れの中で捉えなければ、その意味は説明できないのである。なぜ日本において長く民間の公益活動を担ってきた公益法人などと区別して「NPO」が論じられ、別の法人制度が作られたかを説明するには、公益法人制度の歴史的経緯、阪神・淡路大震災をきっかけとした NPO法成立に向けた運動などが踏まえられていなければならないのである。そういう意味で 「NPO」は、NPO法人制度を中心とした制度を形成する価値、信念、規範、関心、アイデンティティである制度ロジックと見なすことが必要なのである。  

 また、中間支援組織についても、明確な定義がなされないままにNPOを支援するNPOとして、さらには現場組織を支援する組織全般を指す用語として一般化しているが、「NPO」の中でも特別なポジションにある存在として制度ロジックとなっている。「中間支援組織」は、地域の市民活動のまとめ役、世話役、代弁者として位置づけられ、また行政側からは市民活動の窓口、境界連結者、公民連携のパートナーと見なされる。さらには、公民連携の物理的な形としての公設民営の市民活動支援施設の管理運営者であることが標準的な姿となっている。  

 アリスセンターをめぐる制度ロジックとしては、さらにその初期における「市民運動」も加える必要がある。「市民運動」、「NPO」、「中間 支援組織」という制度ロジックは、大きく見るならば「市民活動」、「NPO」あるいは「民間」 という一つの制度ロジックとして捉えることもできるだろう。しかし、このケースで確認できたことは、アリスセンターという組織はこの3つの制度ロジックの流れを識別しながら事業を探索し、自らのアイデンティティを確認してい たということである。こうした組織の行動を説明するためには、ここではこれらを異なる制度 ロジックとして捉えることが重要である。

 表2は「市民運動」、「NPO」、「中間支援組織」 という3つの制度ロジックの特性の違いを整理したものである。それぞれの実際の組織や活動は多様であるが、ここでは特性の違いを分かりやすくするために典型的なものを想定して整理している。  

 これらの3つの制度ロジックとアリスセン ターとの関係を整理しておこう。まず、アリスセンターは市民運動のロジックの中に身を置いていた横田、緒形、鳴海らによって構想された。そのベースには、学生運動、基地反対住民運動、 生活クラブ、神奈川ネットワーク、革新自治体があり、その中にあったロジックの構成要素は行政との対抗、生活者主権、反保守などである。 そしてこれらがアリスセンターの基層を成した。

 しかし、アリスセンターはこの市民運動のロジックをそのまま受け継いだわけではなかっ た。常駐の事務所と専従スタッフを備えるというこれまでの運動体とは異なる要素をその出発点から持っていたために、この態勢を維持するという、いわば組織としての慣性が事業の探索という行動を導いた。また、この組織の慣性が市民運動のロジックとのコンフリクトを生み、 スタッフはその葛藤の中で具体的事業を探索し、その意味付けを行っていた。

 やがて「NPO」というこれまでの市民運動やそのあり方をリニューアルする制度が形成されはじめ、その社会的なインパクトを自分たち の活動にとっての追い風として積極的に取り入れた。しかし、NPOのロジックの中には市民運動のロジックと対立するものもあり、アリスセンターのスタッフたちは自分たちのアイデン ティティとして市民運動のロジックを残しながら、「NPO」の制度に乗る(利用する)という行動をとった。

 こうした制度やそのロジックの選択的利用 は、「中間支援組織」の制度化の中でも行われた。 外部から「中間支援組織」のパイオニアと目され、自らもそのようにふるまいながら、その中の主流となっていた公設民営の支援センターの管理運営事業には乗ることはなかった。「中間支援組織」の制度化の中で、各地の主だった中間支援組織が行政設置の支援センターの管理運営事業を受けることでその存続基盤を安定させていたが、アリスセンターではその基層としての、「市民運動」のロジックからはそれは受け入れられなかったのである。  

 アリスセンターのその後の低迷の原因のひとつは、この行政設置の支援センターの管理運営事業を選択しなかったことにあるといってよいだろう。しかし、「市民運動」のロジックをその基本的価値としている組織としては、むしろ行政設置の支援センターの管理運営事業を選択して、それによって行政による制約に縛られるような状態になってしまうことこそが自らの存在意義の喪失となるのである。


表2 各制度ロジックの特性

出所:Thornton et.al. 2008などを参考に筆者作成


Ⅴ まとめ

 本稿においては、中間支援組織のパイオニアとされるアリスセンターの設立前から今日に至るまでの行動を「市民運動」、「NPO」、「中間支援組織」などの制度ロジックとの関係の中から分析した。日本において「NPO」、「中間支援組織」という言葉や概念が生まれるより前から事業を行っていたアリスセンターが、それらのパイオニアとして社会的に認知されながら、 その制度化の流れを解釈し、その制度化を利用したり、逆に翻弄される様子を記述することができた。  

 制度と組織との関係を分析するには、ある時点の姿だけを切り取ったスナップショット的な分析では限界があり、ある程度の時間的な幅の中での変化を観察する必要がある。歴史的制度論という方法が提示されるのもこのためである。本研究では、具体的ケースについて30年余りにわたる期間の分析ができた。またそれは、 阪神・淡路大震災やNPO法成立という歴史的なイベントを経過して制度化が生じた期間であった。この期間において日本独自のNPOや中間支援組織の制度化が起こったのである。そうした複数の制度の流れの中にありながら、アリスセンターという組織は時には自らがその参照先となりながら、それらの中のロジックを使い分けていたケースを示した点に本研究の意義があると思われる。  

 一方、課題も残されている。まず、本稿において制度あるいは制度ロジックとして識別した 「市民運動」、「NPO」、「中間支援組織」が、 それぞれ制度あるいは制度ロジックとして扱われることが妥当である説明が十分とはいえない。そもそも社会学的制度論とか新制度理論といわれる諸研究での「制度」という概念は認知的側面を重視するため、何をもって制度として規定されるのかが明確ではない。逆にいえば、 そうした解釈の余地があったり、認知の差がありうるからこそ、それをめぐっての組織ごとの行動の違いや制度の変化が説明できるのである。また、そうした制度はそれに関わる諸組織や組織フィールドとの相互作用の中で変化し続ける。したがって、制度それ自体を厳密に捕捉するということ自体が困難なのである。しかし、 明文化されたルール、同型化した組織の数、発生したイベント数、メディア掲載頻度などを測定して、ある程度は制度というものを推定するということは可能だろう。あるいは、ディスコース分析や計量テキスト分析などによって関係する人びとが認識する制度やロジックを定量的に把握することも今後は必要と思われる。


[謝辞]

 本稿を作成するにあたり多くの方にインタビューに応じていただいたり、資料を提供いた だいた。とりわけアリスセンターの事務担当理事だった故鈴木健一氏にはそれらの調整をいただいた。記して感謝したい。本研究はJSPS科研費、 18K01781、20K01871、20K01844、21K01665、 22K01739の助成を受けたものである。


[インタビューリスト]

土屋真美子(初代事務局長)、川崎あや(2代目 事務局長)、藤枝香織(3代目事務局長)、饗庭伸(2 代目理事長)、内海宏(現理事長)、鈴木健一(故人・ 元理事)、菅原敏夫(理事)、早坂毅(元監事)、 横田克巳(生活クラブ生協神奈川元理事長)、山岡義典(日本NPOセンター顧問)、椎野修平(元かながわ県民サポートセンター部長)、藤井敦史(立教大学教授・元アルバイトスタッフ)


[注]

1)内閣府国民生活局(2002)、3ページ。

2)前掲書、「アンケート調査送付先一覧」、146-149ページ。

3)日本NPOセンターHP「NPO支援センター一 覧」、2021年12月17日確認  https://www.jnpoc.ne.jp/?page_id=757

4)アリスセンターの設立の背景から設立後の初期についてのモノグラムは一部公刊済みである(吉田2021、吉田2022)。またその後についても、後編として公刊予定である。

5)インタビュー対象者が自由に話すことで、事前には予期していなかった新たな情報が得られる可能性があること、そしてインタビュー する側のストーリーの展開に対象者が合わせてしまうことを防ぐためである。

6)アリスセンターの最初のパンフレット(1988 年)

7)リップナック=スタンプス(1984)においては「もうひとつのアメリカ」が論じられ、 1985年には日本各地のオルタナティブ運動の現場を紹介する『もうひとつの日本地図』が 刊行された。アリスセンターの創設者のひと りである横田克巳も『オルタナティブ市民社 会宣言 ―もうひとつの「社会」主義―』(1989) という著書を出している。

8)当時、JYVAの発行する雑誌『グラスルーツ』 の編集をしていた播磨靖夫などが中心となって「ネットワーキング研究会」が発足し、これが1989年に「日本ネットワーカーズ会議」 となった。また、仙台市では後に「せんだい・ みやぎNPOセンター」を立ち上げる加藤哲夫らが地域の団体のアルマナックである『セ ンダードマップ』を刊行した。

9)アリスセンターの最初のパンフレット(1988 年)

10)小出力による自主FM放送の運動で、「ミニ FM」とよばれることもあった。「自由ラジオ」 という言葉は粉川哲夫が提唱したといわれて いる。参考、粉川(1983)。

11)土屋(1999)、84-85ページ

12)パソコン通信は注目されていたもののこの当時はまだパソコンの普及もそれほどではなくまた通信コストも高く利用者も限られていた。

13)土屋(1999)、86ページ

14)川崎(2004)、30ページ。

15)土屋(2013)、28ページ。

16)土屋(1999)、84ページ

17)日本NPOセンター(1997)、「訪ねてみました情報拠点」

18)かながわ県民活動サポートセンターの設立の経緯については、吉田(2020)を参照のこと。

19)たとえば「さいたま市市民活動サポートセンター」では、政治的な活動を行う市民団体がセンターの利用登録団体であることに市議会議員が異議を唱え、このセンターは指定管理者制度から市の直営となった。

20)川崎(2020)、52-53ページ。

21)土屋真美子へのインタビュー。2021年8月22 日、Zoomでのオンライン。

22)土屋インタビュー、同上。

23)早坂毅へのインタビュー。2019年6月17日、 於:早坂毅税理士事務所(横浜市)

24)『たあとる通信』のアリスセンター25周年記念特集号は、37号(2013年4月)から40号(2013 年7月)まで毎月刊行された。

25)DiMaggio and Powell(1983)では同型化のパターンとして模倣的同型化の他に強制的同型化、規範的同型化を説明している。

26)Thornton, Ocasio and Lounsbury(2012), p.2

27)Greenwood et.al.(2011), p.318


[参考文献]

 DiMaggio, P.J. and W. W. Powell,(1991)“The Iron Cage Revisited: Institutional Isomorphism and Collective Rationality in Organizational Fields,” American Sociological Re︲ view, Vol.48, 1983, pp.147-160. in Powell W. W. and P.J, DiMaggio ed., 63-82.

 Greenwood, R., M. Raynard, F. Kodeih, E. R. Micelotta, & M. Lounsbury,(2011)“Institutional Complexity and Organizational Responses”, Academy of Management Annals, 5⑴, pp.317-371.

 川崎あや「市民社会へ ―個人はどうあるべきか」財団法人まちづくり市民財団編  『まちづくりと市民参加Ⅳ』2002年12月、34- 40ページ

 川崎あや『NPOは何を変えてきたか』有信堂、 2020年5月

 粉川哲夫編『これが「自由ラジオ」だ』晶文社、 1983年7月

 Lipnack,J. and J.Stamps,(1982)Networking: The First Report and Directory, Doubleday & Company,N.Y.,.(J・リップナック/J・スタ ンプス『ネットワーキング』(正村公宏監修、社会開発統計研究所訳)プレジデント社 1984年5月)

 内閣府国民生活局編『NPO支援組織レポート 2002』2002年8月日本NPOセンター『NPOのひろば』創刊準備号、 1997年3月

 Thornton, P.H., and W. Ocasio,(2008)“Institutional logics,” The Sage Handbook of Organi︲ zational Institutionalism, pp.99-128.

 Thornton, P.H., W. Ocasio and M. Lounsbury, (2012)The Institutional Logics Perspective: A New Approach to Culture, Structure and Process. Oxford: Oxford University Press.

 土屋真美子「神奈川の市民活動の変化に応じて変わってきたアリスセンター」『造景』 No.19、1999年2月84-88ページ

 土屋真美子「協働の25年 ~協働はもう過去の話か?」『たあとる通信』39号2013年6月、 28-32ページ

 野草社:「80年代」編集部編『もうひとつの日本地図』野草社、1984年10月

 横田克巳『オルタナティブ市民社会宣言 ―もうひとつの「社会」主義―』現代の理論社、 1989年3月

 横田克巳『愚かな国の、しなやか市民』ほんの木、2002年6月

 吉田忠彦「市民活動支援をめぐる施設、組織、 政策」『非営利法人研究学会誌』22号、2020年8月、57-73ページ。

 吉田忠彦「アリスセンターの設立と事業展開 ―中間支援組織の解体のために―(上)」 『商経学叢』67巻3号、2021年3月、121- 138ページ。

 吉田忠彦「アリスセンターの設立と事業展開 ―中間支援組織の解体のために―(中)」 『商経学叢』68巻3号、2022年3月、407- 440ページ。


論稿提出:令和3年12月21日

加筆修正:令和4年4月9日





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